無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9777日 十種神宝

古事記神代巻音読を始めてすでに3年が経過した。100回を越えてからペースが落ちたが現在139回目の途中だ。いろいろ用事もあって、なかなか進まない。来年3月で町内会長の任期が終わるので、また以前のように自分だけの時間の流れの中で、ゆったりと暮らせる日が来るのを心待ちにしている。

早朝は、現在同居している二男や女房の出勤と重なり、時間的に難しいので、二人が出かけ、掃除も終わった後に祝詞奏上を行っている。別に何かを期待しているわけでもなく、昨日もいつもの通り神前に座り、いつも通り終わる予定だった。

ところが、昨日は最後にちょっとした出来事があった。それは、少し声がかすれて調子は良くなかったが、一連の祝詞も滞りなく終わり、印を結んでいたときのことだった。

自己流だが、いつも最後に十種神宝による鎮魂を行っている。普段は流れの中で何気なく行っていることだが、昨日は印を結んでフルへユラユラと唱えていると突然意識が飛んでしまった。すると、向こうの方に広がる野原の一本道を、一人の白髪の老人が笑顔でゆっくり歩いてきた。

その顔に見覚えはない。近づいてきて視界から消えると、そのまま私の横にあったベンチのようなものに座った。誰だかわからないが、なんか楽しかった。白髪といっても、如何にもというスタイルではなく、髪は短く刈り込んであり、所謂胡麻塩頭だったかもしれない。地味な洋服を着ていた

横に座ったと感じたとき、意識が戻った。手は印を結んだままだったから、短時間の出来事だったんだろうが、長く感じた。或いは一瞬寝てしまって、夢を見ただけかもしれない。夢なら夢でもいい。こういう夢なら何度でも見てみたい。しかし、あれは一体誰だったのかな。