無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9700日 歴史雑感

人それぞれ、自分の歴史を背負って生きている。この自分史というものは、自分が生きている間は自由に語ったり、書き残したり、修正したり解釈したりすることができるが、死んでしまうと、しばらくは身近な人々の話題にはなるだろうが、ほとんどの人は忘れられてそれで終わりだ。

しかし、歴史に名を残した人たちはそうはいかない。様々な人たちに調べられ、書かれ、解釈されてまったく別な人格になってしまうことすらある。

国の歴史も同じで、編纂した人たちに都合のいいように書かれていることがあるから面倒だ。古文書解釈だけに偏った歴史学というのもどうなんだろう。

更に言えば、文字として残っているから正しいといえるのかどうか、例えば魏志倭人伝なんかも正しいということを前提にして、邪馬台国のなぞ解きをする数多くの本が出ているが、その前提は間違ってないのか。

そんな昔のことではなくとも、150年ほど前の明治維新の歴史をみてもおかしなことはいろいろある。様々な歴史書を読んでいつも違和感を感じるのはなぜなんだろう。

やたら詳しく書かれているところあれば、なぜかさらっと書かれているところもある。

著者によって力点が違うといえばそうかもしれないが、あるいは多くの人が参考にする一次資料の編纂者に何かのタブーが作用しているのかもしれない。

嘘か本当か知らないが、天皇暗殺といえば孝明天皇が有名だ。他にはネットで調べても崇峻、天智、推古くらいしか出てこない。古代のことは別にしても高々150年ほど前に、天皇が暗殺されたかもしれないということだ。

しかもそれによって歴史が大きく動いたということは、壬申の乱にも匹敵するような出来事だと思うが、なぜか軽く扱われている。また、京都から追われたことはあったにしても、長州はなぜ会津藩をあれほど憎んだのか。そのあたりも関係しているのかもしれない。

以前「魔性の歴史-マクロ経済学から見た太平洋戦争」という、大東亜戦争を全く別な視点から捉えた本を読んだことがある。昔から陸軍が悪い、海軍が悪い、東条が悪い等、見方はいろいろあるが、結局金の流れは正直だということらしい。

できることなら誰か「魔性の歴史ーマクロ経済学から見た戊辰戦争」を書いて幕末から戊辰戦争における金の流れを明確にしてほしいものだ。