無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9655日 出雲大社

先日、久しぶりに日帰り旅行で出雲大社に行ってきた。以前に利用したことのある旅行会社のツアーだったが、日帰り旅行は何度行ってもとにかく疲れる。

片道4時間くらいなので、時間的には問題ないんだが、途中道の駅での15分のトイレ休憩が2回あるだけで、そのほとんどを狭い椅子に座っているのだからたまらない。せっかく道の駅に寄るのならせめて30分くらいはほしいところだ。

そうは言っても、旅費が昼食付1人5000円ちょっとなんだから、そこは仕方がないとあきらめるしかないのかな。

その料金で出雲大社まで連れて行ってくれて、昇殿参拝までさせてもらえたので、文句をいえば罰が当たりそうだ。

出雲といえば、やくもたつ出雲やへがき、つま隠みに やへがきつくる。そのやへがきを。と古事記にでてくるようにまさに神話の宝庫で、なんか故郷へ帰ってきたような気がして身が引き締まる思いがした。

歴史的には大和朝廷との関係でとやかくいわれているが、神話の世界ではそんなことは関係ない。そもそも古代というより縄文時代まで遡ることになろうかと思われるが、そんな史料も残されていない古い時代のことなんかは、知らない、わからないという点においては、学者も私も同列だ。

古事記古事記として素直に読んで感じることができればいいのであって、本当のところは誰も知らないんだから、へたな解釈なんかは必要ない。

出雲大社に着く前にいなさ海岸を通ったが、いなさ海岸といえば「伊那佐の小浜に降りつきて、十つか剣を抜きて、浪の穂に逆に刺したてて、その剣の先にあぐみいて......」と大国主神国避の段にでてくるところだ。

勝手にこの場所に「いなさ」と名前を付けただけかもしれないが、神話として感じるならばそんなことはどうでいいことだ。

確かにここは建御雷神、天の鳥船の神の二神にふさわしい海岸だった。鹿島神宮の建御雷神は私にとってなじみ深い神でもあることから、特に感慨深いものがあったのかもしれない。

待望の出雲参りができて、有り難い一日だった。