無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9654日 将来とはいつのこと

親の晩年を見てきてわかったことはの一つは、死ぬことがいかに大変なことであるかということだった。いかに死ぬかということは、人生最大の関門だともいえる。

いずれ死ぬということは漠然とわかっていても、遠い先のことだとして忘れてしまいたい。それでも死ぬことは未経験であるがゆえに、その未知の恐怖から逃れることはできない。

それから逃れようと、健康に気を付け、病気になれば医者に掛かり、薬を飲んだり手術をしてもらうわけだ。

将来肺ガンになる確率が高いと考えて、たばこをやめたのが22歳の時だった。吸い始めたのが17歳だったから5年は吸ったことになるが、46年以上禁煙しているので肺は新品同様のはずだ。

また、コレステロール値が300を超えていて、医者にこのままでは将来血管が詰まるといわれ、メバロチンを飲み始めたのが35歳だった。その後リピトール、クレストールと薬の種類は変わったが今でも飲み続けている。

最近時々考えるんだが、その当時将来とは何歳のことを想定していたんだろう。20代、30代で想定する将来とは、おそらく定年後ということで、70歳前後のことではなかっただろうか。

そうだとすれば、もうすでにその地点に到達しているということになる。そして、今のところ健康だということは、その目的はすでに達成したともいえる。

それでは、今、将来のためにたばこをやめたり、将来のために薬を飲んだりすることに何の意味があるんだろう。仮に検査値が基準値を超えていても、目的を達成した以上そんなことに一喜一憂する必要があるのか。

じつはこのことに気が付いてから、試しにクレストールを飲むのを4日に1錠にして、3日飲まずに検査してみたところ、結果はすべての値が基準値内だった。

以前は1日飲まなければ跳ね上がっていたコレステロール値が、3日飲まなくても基準値に収まっているということは、結局飲まなくてもいいということではないか。

これも老化の一つの現象かもしれない。

たばこも同じことだ。食後の一服のうまかったことは今でもよく覚えている。目的を達成した以上、これも我慢することもないだろう。

知らなければ心配することもないと考えれば、悪いところを無理やり探し出す健康診断もやめようかと思っている。

ただ、最近ときどき喘息がでるようになった。昔小児喘息で苦労した身としては、あのつらさは骨身にしみているので、たばこだけはちょっとためらっている。

たばこ再開は70歳まで待ってみよう。