無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9637日 忘却願望

この間家族みんなが集まったとき、母が84歳で死んで、父が94歳で死んだのだから、二人とも十分長生きをしたという話になった。確かに、今32歳の長男や29歳の次男、35歳の長女のように、先の長い者とってはそうともいえるのだろうが、68歳の私にとっては、84歳まであと16年しかないことになる。

母が84歳で死んだとき、私は53歳だったが、84歳は年齢的には不足はないと考えていた。しかし、あと16年かと思うと、84歳はそれほど長生きでもないような気がするから勝手なものだ。

100歳まで生きても元気であればいいという人もいるが、私はそうではないと思っている。100歳まで生きていったい何をするんだろう。子や孫の為にも、ほどほどに死んでやるのが一番だろう。いくら生きることに価値があるとはいえ、浦島太郎では面白くもない。

もちろん親が死んで喜ぶものは誰もいないと思うが、年を取って老老介護状態になることを考えると、誰にでも寿命の切れかけた老親が重荷になることもあるはずだ。

また、年を取るということは、肉体だけでなく精神面でも年を取るということだ。仕事を辞めて5年目になるが、そのほとんどを家で過ごしていると、やることはいくらでもあるとも言えるし、またないとも言えるという、極めて不安定な状況にいることに気が付くことがある。

何をやったところで具体的に生み出すものは何もないので、どう感じるかはその時の精神状態に左右されることになるんだろう。

すべてが自由という状態の中で、日がな一日1人で自分と向き合っているということは、多くの人には耐えられないことだと思う。ちょっとした気の持ちようで、人生バラ色になったり暗黒になったり、客観的に観察していると、おかしな生き物に思えてくることもある。

例えば、楽しいことも嫌なことも、自分とは何の関係もないし、何の色もついてない一つの現象にしかすぎないのに、楽しいとか嫌とか、自分勝手に色付けして、勝手に悩んだり、喜んだりしているんだから、どう考えてもおかしいだろう。滑稽な独り相撲か、あるいは道化師か。

結局忘れるしか逃れる方法はないかもしれないが、案外心の底にあるこの忘却願望が、無意識のうちにボケにつながっているのかもしれない。

寿命とはいえ、できればボケる前に元気に死にたいものだ。