無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9576日 ネット空間における過去とは

インターネット社会になって変わったことの一つに、忘れることができ無くなったということがある。昔なら話題になっても一定期間が過ぎればほとんど忘れられてしまった。喉元過ぎれば熱さ忘れるで、一部研究者が狭い範囲のことを細かく覚えるということはあっても、社会一般の人たちにとっては、ほとんどのことは忘却の彼方へ飛んでいってしまっていた。「君の名は」ではないがまさに「忘却とは忘れ去ることなり」、だった。

だいぶん前のことだが、市内の病院の院長が、職務外でつまらないわいせつ行為をして捕まったことがあった。その病院は、院長の苗字を病院名にしていたため、いまだに、その病院を検索すると常にわいせつ行為の事件の記事が表示されてしまう。病院名を変えない限り、ずっとついて回ることだろう。

ネットが無ければ、古い新聞の切り抜きを電柱に張り出したりしない限り、思い出す人もいないだろう。

こんな小さな事件なら、名前を変えれば済むかもしれないが、最近の世界のニュースを見ていると、忘れられないことを利用して憎悪の連鎖をあおる行為が国家規模で行われて、それが深刻な問題になってきているように思えてならない。

人類の歴史は戦争の歴史でもあり、人類の進歩に戦争の果たした役割は大きい。一つの戦争は次の戦争で塗り替えられ、それはまた次の戦争で塗り替えられて、その都度記憶を新しくしてきた。そして古い戦争はほとんど忘れ去られてきた。

ところが第二次世界大戦大東亜戦争後は少し様相が変わってきた。原因は大量破壊兵器の出現により大きな戦争が不可能になり、記憶を塗り替えることができなくなったうえに、更に、ネットの発達により、それをいつでも思い出させることができるようになった。

例えば、日本はアメリカに負けて、サンフランシスコ講和条約で国際社会に復帰し、ソ連以外の当事国とは国家間のけりはつけてきた。以前ならばだんだんと戦争の記憶は薄らいで、国民間のわだかまりもとけていくはずだった。ところが現実はそうはなってない。以前より先鋭化しているともいえるかもしれない。

何十億の人たちが、日夜あることないことをネットに書き込み、それを検索することにより、歴史の中に埋もれていたあることないことを検証することなく取り出して、それをまた書き込むというこの無限連鎖が作り出す空間に秩序はない。

過去を検証して今に生かすということは確かに大切なことだが、ネット空間に作り出された過去は、それ以前の過去の概念では捉えられなくなっているということを忘れてはならないのではないだろうか。