無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9574日 楽しく生きる

人は生きているうちが花で、死んだらゴミになるなどという人もいるが、それでは夢が無さすぎる。ものの本によると、イスラム教では殉教すればあの世で美女に囲まれて生活できるらしい。それなら行ってもいいかなと思ったりもするが、帰ってきた人がいないので、誰も証明できない。それでもゴミになるより、そのほうがよっぽど夢がある。

日本人の多くは宗教に鈍感なので、教義にとらわれることなく精神的に自由に生活している。どの宗教でも受け入て、信者になることはないにしても反対はしない。だから宗教上の争いが起こらない。

歴史上に無かったかといえば、そうではないが、違う宗教同士で殺しあうという過激なものではなく、キリスト教などに比べると、おとなしいほうだったと思う。

特に神道は信ずることを強要するわけでもないし、教義が無いという点では宗教と呼ぶことにも違和感を感じる。したがって私は神道が好きだが信者ではない。参拝することが目的であるから殊更御朱印帖を集めたいとも思わない。

以前はお札も購入したが、神棚に置いておくにも限りがあるし、粗末になってはいけないのでやめにした。神社に納めるのは10円から100円くらいの賽銭だけだから、神社にとってはいい参拝者とはいえないだろう。

参拝時は神前で祝詞を奏上するが、何かお願いすることもない。吉川英治宮本武蔵で読んだのだと思うが、「神にものを頼んではいけない、神は敬うべきものだ」とか「風呂に入っても、体の垢はおちるが、心の垢は落ちない」とか、まさにその通りだと感心した。

しかし、心の垢を落とすのは難しいかもしれないが、そもそも垢とは落とすべきものなのかどうか。それを落とすのが宗教の目的の一つだと考えることもできるが、そうすると、世間に数多ある宗教の多くはそれに該当することはないだろう。

じゃあ、心の垢は落とす必要はないのかと言うと、そんなことはどうでもいいというのが正解だと思う。映画のセリフや、小説の中で宮本武蔵がそう言えばこそ値打ちも出てくるので、そこいらのオッサンが、単に風呂に入るのが嫌で「風呂に入っても、体の垢はおちるが、心の垢は落ちない」などというと㋖扱いされるのがオチだ。

よくわからんが、宗教とはなんとなくそんな感じがしている。

小難しいことを言わずとも短い人生なのだから、うまいものを食べ、うまい酒を飲み、楽しく遊び、適度に働き、物事を肯定的に考え、過去に囚われることなく、まじめに、正直に生きることができれば、それだけで、十分生まれてきた甲斐があったといえるのではないのかな。