死は誰でも一度しか経験できないがゆえに、死の評論家はいても死の専門家は存在しない。僧侶や神父、神主に聞いたところで誰も知らないし、ましてや宗教学者などにわかるわけがない。
そもそも宗教とは死の恐怖から逃れるためにできたようなものだ。しかし、死とは何かということはだれにもわからないのだから、宗教に答えはない。それでも見えない鉛筆を買い求める人が後を絶たない。この人たちは一体何を求めているんだろう。
そもそも、死はそれほど忌むべきことなのだろうか。死なないということは、今の状態が永遠に続くということで、それはそれで恐ろしいことだ。
なんかで読んだことがあるが、赤塚不二夫が、なぜそんなにたくさんの漫画を描くことができたのかと聞かれた時、それは締め切りがあったからだと答えていた。逆に言えば、締め切りのない世界にいたら、赤塚不二夫はあれだけの漫画を創造できなかったということだ。
生き物はすべて死ぬということは、これと似たようなことではないのだろうか。人生には締め切りがあり、締め切りがあるからこそ懸命に生きることもできる。そして締め切りがあるからこそ、一つの作品として一度しかない人生が浮かび上がる。
そう思えば、死はそれほど恐れることもないにかもしれない。決して望みはしないが、来るなら仕方がない。まぁ、こんなことが言えるのも、人生あと9558日となり、ある程度見通しがつくようになったからかもしれない。
年をとると時間が早くなるとはよく言われるが、先日二男と話していて気が付いたことがあった。
30歳になる二男にとっては30年前は遠い昔のことだ。しかし、一緒に過ごしたこの30年と、それ以前の30年とでは、私にとって時間の速さが明らかに違っている。
新しい時間軸ができた途端に、本来の時間軸は全体が凝縮されていくということかもしれない。或いは、縮尺が変わって、すべてが近づいてくると言えるのかもしれない。そしてそれがゼロとなる時が、終わりの時になる。その瞬間にすべてを見て、知るのかもしれない。
死の瞬間の父の目の輝きは今でも謎だ。私はそれを見た時に、死はそんなにつらいことではないのではないかと感じた。この時、父も自分のすべての人生を一瞬に凝縮して見たのかもしれない。そして良かったと思えたに違いない。