無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9435日 ノンリターンバルブ

去年の12月に民生委員を引き受けた頃、担当地区のお年寄りと感染症予防の話をしていた時「もう、インフルエンザになって死んでもいいんですよ。」と話す人がいた。まだ80歳にもなってないのに、そんなことを言わなくてもいいのにと思って、思わず「インフルエンザになって肺炎で呼吸困難で苦しんで窒息死するよりも、どうせ死ぬんならガンで死んだほうがいいですよ。」と言ってしまった。

ちょっとまずかったと思ったがもう後の祭りだった。これは怒られるかなと観念していると意外なことに「そうですか、インフルエンザはそんなにしんどいんですか。それならインフルエンザで死ぬのはやめときます。」と言ってにっこり笑ってくれた。

年をとって1日中1人で家にいるといろいろ考えてしまう。このお年寄りだけではなく、私自身も自分がこの世に生きていなくてはならない理由が見つからないこともある。じっさい私が今死んでも誰も困らない。ちょっと困る事と言えば、遺族年金になるので、女房が受け取る年金が減るぐらいのことぐらいだろうか。

要するに、すでに役割は終わっているということだ。

仕事を辞める前には、定年後の生活は、子供にとっての長い夏休みと変わらないように安易に考えていた。あの頃は朝起きると、さあ今日は何をして遊ぼうか、プールに泳ぎにいくか、ため池に釣りに行こうか、山に蝉取りに行こうか、Tちゃんとキャッチボールしようか、考えるといろいろ楽しかった。

しかも子供の夏休みには嫌な宿題があったが、定年後はそれもない。いいこと尽くめのはずだった。しかし現実はそれほど単純なものではなかった。すでに4年間の長い休みを経験した今言えることは、「子供が年を取って老人になる。これは肉体的には正しいことだ。確かに子供の延長線上に老人がいる。しかし、精神的にはそうではない。両者は全く別のものだ。」ということだ。

子供は早く大人になりたいと思い、そして大人になることができる。大人になるということは死が近づくことでもあり、両親との別れもあるにもかかわらず、それでも子供は大人になりたいと思う。そこには死へ向かうという意識はない。

その精神的成長の過程にはノンリターンバルブのようなものが設置されているに違いない。その勇敢な子供時代とさよならをして、そのバルブを越えて精神的に死へ向かったのはいつの頃だったんだろう。