無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9277日 旅に出たい

定年退職してからまる8年たち、今年4月から9年目に入った。退職後再雇用を4年で辞めて、毎日が日曜日になったわけだが、月日が経つのは早いものだ。

9年と言えば小学校入学から中学卒業までになるが、それは途方もなく長い時間だったように記憶している。この加速された時間の流れの中では、残りの時間などあっというまに過ぎてしまいそうだ。

再雇用の4年間で全国神宮神社参拝の旅と称して、北は平泉の高館・宮城県鹽竈神社から南は宮崎神宮まで青春18切符で旅をしたことがあった。3年手帳を見ながらその跡をたどってみると、よく行ったものだと我ながら感心してしまう。

こんなわがままな旅は一人だからできるのであって、人と一緒だったら必ずどこかでけんかになり、お互いが嫌な思いをするに違いない。それは日常の世界だけで十分だ。旅とは日その日常から離れたものでなければ意味がないと思っている。

旅とは、なにげなく過ぎ去ってゆくときのながれに打ち込まれた一本の杭なのかもしれない。

そんな旅も、コロナと膝の故障のおかげで遠のいている。コロナはいずれ納まるが、膝は如何ともしがたい。つい3週間ほど前になるが、近所の公園の剪定作業を手伝っていて、一気に悪化してしまった。毎日5000歩どころか、数日はまともに歩くこともできない状態だった。

自由に歩いたり走ったりできるということがどれだけ有り難いことだったか、改めて気が付いた。近頃は少し回復して、サポーターを巻いてゆっくりなら歩けるようになった。このサポーターにもいろいろな種類があり、何種類か試してみたが、百均で売っているものでも十分役に立つということがわかった。ダメもとで買ってみたが、まさに百均恐るべしだ。

今年は無理でも、来年の春あたりには百均サポーターともおさらばして、奈良大和あたり歩き回ってをみたいと思っている。