無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8665日 大東亜戦争

10年以上前に古本で購入したが、興味のある部分しか読んでなかった中村粲著「大東亜戦争への道」を一気に通読した。ハードカバーで650頁だからかなりの大作と言えよう。やはりこういう本は一気に読まないと、それぞれが断片的な知識となって結びつかなくなり、大きな流れを捉えにくくなる。

戦後GHQによって改名された太平洋戦争ではなく、大東亜戦争としていることからも中村氏の姿勢はあきらかだが、初版が発行されたのが平成2年12月だから、WGIPの真実が公になる前でもあり、この呼称だけでもかなり抵抗があったのではないだろうか。これをたかがネーミングだ、どちらでもいいだろうと軽く考えてはいけない。大東亜か太平洋かで戦争の持つ意味が全く違ってくる。

戦前の教育を受けた人がほとんどいなくなった結果、もはや自己規制しなくても、日本人からあの戦争を大東亜戦争と呼ぼうという意見は出てくることはないかもしれない。しかもこの呼び名はアメリカの戦勝史観を覆すことにもつながりかねない。もしも政府が変更するなどしたらアメリカだけではなく、尻馬に乗った特亜の国もおそらくいちゃもんをつけてくることだろう。

ブログやツイッターで保守的な意見を述べている人たちの中にも、大東亜戦争と呼んでいる人は少ないという現実をみても、少なくとも言論で飯を食っている人たちには、未だに有形無形の何等かの制約が働いているようだ。75年たっても唯々諾々とGHQの指令に従っているのにも腹が立つが、ウクライナの状況を見ていると、ソ連民族浄化されなかっただけでもラッキーだったと言えるのかもしれない。

通読してみて思うことは、開国以来、難しい国際社会の中で、まだよちよち歩きの日本や日本人が裏切られたり、騙されたり、仲間外れにされたりしながら、それでも追いつこうとして背伸びしたり、見栄を張ったり、そんなことを繰り返すが認めてもらえない哀愁が漂っているということだ。

特に日英同盟が無くなってからの孤独感というものは、突然現在の日米の同盟が無くなることを考えれば、ある程度想像がつくが、恐らく当時としてはそれ以上の衝撃だったのではないだろうか。持てる西洋の国のブロック経済が進む中で、東洋の持たざる黄色人種の国が、たったひとりで名誉ある生き方を貫くことは困難な時代だった。

これをあまりにも自国本位の歴史観だという向きもあるかもしれないが、そういう意見には、それがどうしたと返したい。自国の歴史を自国本位に解釈することは世界中どこの国でもやっていることだ。特に義務教育においては、愛国心を育むように尾ひれを付けるのは当たり前だ。

自虐史観が跋扈している今の文科省に何を求めても最早全く意味はない。こんなものは放っておいて、まずは気が付いた国民が、普段から先の大戦大東亜戦争と呼ぶことから始めたらどうだろうか。

あと8676日 希望があれば

この間80歳の独居高齢者Nさんのお宅を訪問した時に、いつの時代が一番良かったかと言う話になった。その時Nさんは、「店に行けば何でもあるし、交通機関も発達して便利な世の中になったけど・・・・今と比べると昔はお金も物も無かったけど、毎日がにぎやかで楽しかった。明日は今日より、来年は今年より良くなるという希望があった。その点今の若い人たちは気の毒ですね。」と話していた。

昔は金を持っている家といえば、開業医とか一部の自営業者くらいで、公務員などは安月給の代名詞だったから、ほぼ全員が貧乏だったといっても過言ではない。近所同士で醤油や米の貸し借りも普通に行われていたし、家族旅行など夢のまた夢、海外旅行なんか月に行くのと同じ感覚だった。しかしその頃は貧乏だったといってもそれが当たり前だった。結構楽しかったし物質的にも精神的にも貧乏だという感覚はなかった。もちろん親も多少無理してくれたんだろうが、希望さえがあれば貧乏には負けないものだ。

もっともNさんの実家は辺鄙な農村だったが、村で唯一の雑貨屋をやっていて、高校生の頃には家に小型トラックがあったというから、貧乏という感じではなかったようだ。

私が高校生になったのは昭和42年だった。大学進学を目指すなら、東、南、北の3県立高校のどれかに受からなければならないが、当時は倍率が2倍近くあったので、落ちる者もたくさんいた。ただ、試験は9科目一発勝負だったので、今のように内申書によるさじ加減が無かったぶん平等だったといえるかもしれない。

この頃に一度だけ父親に兄弟二人のうち一人は医者にならないかと言われたことがあった。二人そろってあんな病人相手の仕事は興味ないと答えたら、そうかと言って黙ってしまった。その気になって頑張ればなんとかなったかもしれないが、それぞれ海上自衛官や商船士官になりたいという希望を持っていたんだからそれはしかたがない。

医者と言えば、昭和45年頃から新設医大がぞくぞくと登場し始めた。川崎、杏林、北里とか、同級生も何人か入学した。もちろん開業医の息子や自営業者の息子だが。中には高校3年まで私立文系コースにいたのに、突然新設医大に入学してみんなを驚かせた奴もいた。噂では代議士に頼んだとか言われていたが、普通に考えたら理科も数学もやってないのに受かるわけないわな。

それが面白いことに、今ではその頃の経緯なんか誰も覚えてないので、患者の間では私立文系コースから医学部に合格できたのは、逆に優秀だったからだということになっているらしい。まあ本人も立派な医者になっているようだから、とにかく入学の関門さえ何とかして突破してしまえば、後はなんとかなるようだ。

コロナで暫くやってないが、中学の同窓会をやっても集まるのはだいたい決まっている。当時一緒に遊んだ友達の多くは希望を持って都会に出ていって帰ってくることはない。みんな団塊世代の末端として経済成長に貢献して、じいさんばあさんになってしまったが、それぞれの土地で根を張って死んでいくのもそれはそれで立派なことだ。そんなこんなでいろいろあった人生双六だが、あがりを引くまであと少し。今更希望でもないが、今この瞬間が一番と考えて1歩でも2歩でも前に進むことが肝要なのかもしれない。

あと8688日 都会から地方へ

私が子供の頃には、春になると集団就職列車で都会に向かう中学生が話題になっていた。それら少年が地方から都会へと集まり、高度経済成長の礎となった。少年だけではない。都会の大学に入学した者もそのほとんどは都会の企業に就職して地方に帰って来ることは無かった。地方から都会に人が集まり今の日本の繁栄を築いたと言っても過言ではない。

昔は貧しい子だくさんの地方があり、そこから優秀な若者が豊かな都会を目指していたが、今や日本全国どこへ行っても子供の数は少なくなり、昔のような貧しさは感じられない。テレビの影響か、皆同じような清潔でこざっぱりした服装をして、テレビ言葉でしゃべっている。何も好き好んで都会に行かなくても、生まれ育った地域の中でけっこう豊かに暮らしていける。

勿論今でも職を求めて都会に出る若者もいるが、昔のようなエネルギーは感じられない。日本全体が均質化することにより、人的流動性が失われてしまったと言えるのかもしれない。それに加えて少子化だ。供給源を断たれた都会では労働者不足で、日本人がいないなら外国人でと、様々な都合のいい制度を作り招きいれているが、利益は都会が得て、コストは全国民が支払うというのはおかしい。

そもそも東京一極集中はダメだとか、首都移転とか、一時期盛んに言われたがあの話はいったいどうなったのか。決める側の人間がみんな東京に住んで、子供に良い教育を受けさせたいと考えている以上話が進むわけがない。当地出身の国会議員の子息も東京生活のあげく、親が引退すると落下傘で降りてきて地方再生を語っている。

国立大学法人化の頃に、東京と神戸の商船大学を合併して、技術継承のための新たな商船大学を、東京以外の地方に設立しようと画策したことがあったという話を友人から聞いたことがある。結局その話はつぶれて、それぞれが東京水産大学神戸大学の一部となった。対抗意識と同時に東京以外ということもネックのひとつになったようだが、商船大学という伝統のある看板を無くしても守りたいものがあったということだろうか。

四国以外は新幹線が走り、隅々にまで地方空港が整備され、高速インターネットが張り巡らされ、宇宙には通信衛星が飛び交っている今の時代に、首都を東京においておく理由はないだろう。そうなると皇居は京都御所へ。官庁も大学も大手企業も地方に移ったところで業務に関してほとんどは困る事は無いだろう。

もはや、地方の高校を出て都会の大学にはいり、卒業して大企業に就職、その後定年まで安泰という時代ではなくなった。戦後続いた地方から都会への人の流れは、減ることはあっても増えることは無いだろう。受け皿さえあれば地方の優秀な学生は地元に残りたいと考えている者も多いと聞いている。今こそ戦後続いた地方から都会へという流れを断ち切り、地方から地方へ或いは都会から地方へという流れを創出しなければ、日本の新たな成長は望めないのではないだろうか。

あと8690日 嗚呼専守防衛

国際条約で決まったものではないにしても、領海3カイリという考え方は砲弾の着弾距離から導き出されたものだそうだ。3カイリ或いは12カイリでも同じことだが、敵国軍艦がやって来て領海すれすれを遊弋しながら大砲を撃つ、砲台がそれに反撃する。金剛比叡クラスの35センチ砲で射程が約30キロ。したがって敵艦を30キロまで近づけなければ被害を受けることはない。

それが飛行機が爆弾を抱いてやってくるようになって、その航続距離が数百キロだとすると、航続距離=射程距離ということで、砲弾に比べてそのスピードは遅いが射程は長くなった。数百キロ先から人が操縦して、たかだが200ノットくらいのスピードで爆弾を運んでくるのだから、遠方からレーダーで探知して迎撃することが容易だった。日本国憲法ができたのはそのころだった。

日本はその憲法で戦争を放棄したから他国を攻めることはできない。そこでディフェンス専門の組織が4つの島に立てこもって敵を迎撃するという、まるで昭和20年にやろうとした本土決戦の再来だが、それを専守防衛という面妖な言葉に言い換えてしまった。とは言え、日米安保条約が結ばれて、船と飛行機が戦う手段だったその当時の東アジア情勢からすれば、専守防衛は可能な戦略だったのかもしれない。

しかし、70年後の今になっても、日本の首相がわが国は専守防衛だということの異様さをどう理解したらいいのだろうか。射程千キロを超える超音速長距離ミサイルが存在し、その威力たるや一発で都市が更地になるかもしれない。領海3カイリの時代に当てはめると、国の周囲がぎっしりと金剛榛名級の戦艦で囲まれたが、こちらには一門の砲も無いということになるのだろうか。海岸から30キロ以内の都市はほぼ壊滅するが、どうやって国民の生命財産を守るつもりだろう。

多くの日本国民は気が付き始めた。ウクライナはロシア本国を攻撃できないが、ロシアはウクライナに攻め込んで満洲樺太、尼港の再現でやりたい放題だ。安全地帯から数百発のミサイルを撃ち込んでインフラを破壊している。これってウクライナにとっては本土決戦であり専守防衛ではないのか。日本もこうなるのか。総理が絶対守るといった専守防衛という概念は、今の戦争では全く成り立っていないということをウクライナが証明しているのではないか。

7月の参議院選挙ではウクライナ侵略戦争を踏まえて、どうやって国家国民を守るのか、真剣に政策を戦わせてもらいたいものだ。

あと8694日 雨を眺めながら

今日は久しぶりの雨で、窓から見える城山も霞んでいる。その姿は昔と変わらないが、窓から見える景色は子供の頃とは随分変わってしまった。第一に平屋の家が無くなり、全部2階建て以上になって見通しが悪くなった。うちの家は2階建てだったから、2階に上がると遙か向こうまで見渡すことができた。

特に夜の火事はよく見た覚えがある。というのもこの辺りは小学校から大学まで学校が集中していて、昔は設備も悪かったからなのか、或いは放火だったのか知らないが、それらの学校が良く燃えていた。夜の火事は火の粉が舞い上がるのがよく見えて、500m先でもすぐそこで燃えているように感じられて恐ろしかった。

幸いこの辺は住宅街で今でも静かなほうなんだが、昔は恐ろしいくらい静かで、夜になると1キロほど離れた動物園からライオンの咆哮が聞こえてきたり、国鉄予讃線を走る蒸気機関車の汽笛が聞こえてきたものだった。厳冬の頃には近くの寺から、白装束の集団がうちわ太鼓をたたきながら家の前を通るのがこの世のものとは思えなかった。

最近はそんなことはないが、昔は子供の泣き声がよく聞こえいたような気がする。私自身も経験があるが、いうことを訊かない子供が父親に叱られて、家から追い出されてよく泣いていた。今でも覚えているのは、朝が来たらこのままで学校に行けとでも言われて追い出されたんだろうが、うちの前の三叉路で、兄弟でランドセルを背負った状態で泣いていた子等のことだ。父が笑いながら「○○さんとこの子かな。」と話していたので知っている家の子だったようだ。結局最後は母親が迎えに来て、「父ちゃんによく謝って許してもらおう」と手をひいて帰ることになるんだが、今なら児童虐待で通報されるかもしれない。

ゆったりと雨を眺めていると、いろいろ昔のことが思い出されて楽しくなってくる。それも両親や兄、友人、近所の人たちにもお世話になって、幸せな少年時代を過ごすことができたからだと感謝している。あの頃周囲にいて見守ってくれた人たちはみんな鬼籍に入ってしまった。今の子供たちが老人になった時、この時代を楽しく思い返すことができるように、自分自身がその当時の大人の役目を少しは果たしているだろうか?時々考えてしまう。

あと8699日 工賃4000円の仕事

自分の周りの状況は、昨日も今日も何も変わってないのに、気持ち次第でそれが明るくなったり暗くなったり、優しくなったり厳しくなったり、様々に変化するということはよくあることだ。私も毎日を淡々と過ごしているつもりでいても、感情の起伏は常に感じているし、それによって見る景色が変わることもある。普段やらないことをやって、それがうまくできた時など浮き浮きした気分になることもあり、それが経済的にプラスになった場合などはなおさらのことだ。

昨日、13年乗っているフィットの左側のミラー内のギアが破損して、格納モーターが止まらなくなった。走っている間中ガタガタ音をたてるのでうるさくて仕方がない。今回は2回目なので慌てることもなかったが、去年右のミラーが同じ状況になった時は、焦って近所の修理工場の社長に来てもらった。

社長のいうには、これはフィットの持病みたいなもので、樹脂製の歯車は10年くらいでダメになるらしい。中古のミラーと取り換えたら3万円くらいかかるが、手動格納のままでいいのなら、その線を切ってモーターを止めるだけでいいので、工賃4000円でできると言われた。

その時は考える暇も無かったので4000円で社長にやってもらったが、今回は原因がはっきりわかっているし、モータに繋がる線を切るだけなら自分でできるだろうと、ネットで調べてみた。ドアの内張りを外すとか、カプラーの端子を抜くとか、ぶっつけ本番でやるのだからすんなりいくとは思わないが、4000円払うことを考えたらやるしかないだろうということで、今朝10時から作業にかかった。

若い頃は外国航路のエンジニアをやっていたので、こういう作業に違和感はないが、当時のように図面で確認しながらやるわけではないので、ネットの記述で内張りは思い切り引っ張っても大丈夫と書かれていても、どれだけ引っ張ればはずれるものなのかよくわからない。引っ張ったり緩めたり、試行錯誤しながら30分もかかってしまった。

次にカプラーから格納モーターに繋がる端子を取り外す作業にとりかかった。それが白色の線だということはネットで調べていたのですぐわかったが、さて、それをどうやって抜くのかわからない。ユーチューブではカプラーの形態によって様々な抜き方が紹介されているが、フィットと同じ型のものはない。

それでもやり方は基本的に同じはずだと、これも30分ほど試行錯誤するうちにリテーナーの構造がわかってきた。これさえわかればしめたものだ。そのあと8mmの精密ドライバーを使って端子を押し出すと簡単にはずれた。

この状態でつないでテストしてみたところ、ガリガリという音はきこえない。電動で格納はできないが、ミラーの角度の調整やウィンカーはきちんと作動した。これで完了だ。あとの復旧に15分かかったが、全部で2時間弱で終わった。これで4000円分の仕事をしたと思えば、達成感に満たされたこの清々しさは久しぶりの体験だった。

話せばたったこれだけのことであり、他人から見ればどうということはないつまらないことかもしれない。しかしそれは当然のことで、達成感や清々しさという感覚を作り出したのは自分であり、他人は関係ないことだ。つまり100人いれば100の世界が存在する。自分の見る世界は他人の評価も受けつけず、まさに自己満足の極致かもしれないが、自己満足大いに結構ではなかろうか。いずれにしても楽しい一日だった

あと8704日 マダニ騒動

先日、山でマダニに咬まれてしまった。長ズボンに長袖の服、足には脚絆を巻いて、露出する部分は全く無かったはずだがどこから入ってきたのか、起床時にふくらはぎに頭を突っ込んで5倍ほどに膨らんだ状態で発見した。血を吸いながら麻酔に似た物質を出すため、痛くも痒くもないので発見が遅れるらしい。

軽く引っ張っても取れないので、最初はイボでもできたのかと思ったが、いくらなんでも一晩でこんなに大きくなることは無いだろうと考え乍ら女房に見せると、即座にこれはマダニだと言われた。女房は以前からユーチューブで寄生虫等の気味の悪い映像をよく見ていたのは知っていたが、今回はその知識が役に立った。

そして、麻酔をかけてマダニごとえぐり取る以外ないので、早く皮膚科に行かないと下手したら死ぬよと言われた。以前、職場の同僚の母親がマダニに咬まれて亡くなったことを思い出して、ネットで検索すると、致死率30%のSFTS「重症熱性小板減少症候群」をはじめライム病、ツツガムシ病などと恐ろしい言葉がならんでいる。

3割死ぬのか、これは大変と急いで近所の皮膚科に駆け込んだら渡された番号札がなんと42番だった。受付でマダニに咬まれたと伝えると看護師が確認して、これはオペになるので、42番では時間内にみれないかもしれない。できたら他の皮膚科へ行って早く処置した方が良いと言われた。42という番号も不気味だったのでちょっとホットして、その足でもう一軒の皮膚科へ向かった。

受付後20分ほどして呼ばれた。マダニで間違いないということで処置を行った。まずワセリンで塗りかためてマダニを窒息死させ、自然にはずれるのを待ったがいっこうにはずれない。結局、局部麻酔を打ってハサミでマダニの口ごと切り取ることにした。麻酔をしているので痛くはないが、ハサミで肉を切られる感触は、決して気持ちのいいものではない。その後採血をして抗生剤のクラリジッドと傷口に塗るゲンタマイシンをもらい、一週間ほど様子をみるように言われて帰宅した。

すべての処置が終わってほっとした同時に、山という自然が支配するテリトリーに入っていくことに初めて不安を感じるようになった。それから1週間、天気が良くなかったこともあり、山は休みにしていろいろダニ対策を考えてみたが、原因はズボンのすそを靴下の中に入れてなかったということしか考えられなかった。

子供の頃は半ズボンで走り回っていたんだから、脚絆をしっかり巻いていれば丈夫だろうと安易に考えていたが、それだけでは不十分だったようだ。そこでワークマンに行ってダニが付きにくいといわれているポリエステルの速乾性の作業用ズボンを購入した。ズボンの上にこれをはいて、その裾を靴下の中に入れて、その上に脚絆を巻けば大丈夫だろう。

しばらくはこれでやってみよう。