無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9044日 子供の世界とは

昭和30年代前半、子供たちの遊び場は、家の前の道路と近くの中学校の運動場だった。家の前も車どころか人もほとんど通らないので、みんなで集まっていろいろな遊びをしていた。よくやっていたのにランコンがあった。今風に言えばビー玉遊びかな。この地方ではそれをランコンといって、駄菓子屋で売っていた。

他にもかくれんぼ、缶蹴りはもとよりパッチン、イッセン、たすけ、インディアンの金玉、ポコペン、それに遊び方は忘れたが東京遊びとか大阪遊びというのもあった。町内一周リレーみたいなこともやっていた。子供の数が多かったから小さい子らもいたが、近所の小学校高学年の子が中心になって遊ばせてくれた。

かくれんぼや缶蹴りでは幼児は数の子と呼ばれて、つかまっても鬼になることを免除されてたので安心して一緒に遊ぶことができた。わいわい遊んでいるうちに、夕方になると夕食の支度が始まり、家々の細い煙突から煙が立ち上ってくる。周囲が薄暗くなる頃には白い割烹着を着た母親が「ごはんができたよ。」と迎えに来てくれた。こうして遊んでいる子供が1人減り2人減りして遊びは自然に終わっていった。

このように書くといかにも子供らしい、和気あいあいとした明るくのどかないい時代だったように感じるかもしれないが、記憶にある子供の世界とは本当はもっと残酷なもので、決して楽しいばかりではなかった。大勢いたらそれなりに嫌な奴もいる、それぞれのグループもあるし、力関係もある。ある意味社会の縮図だった。

私は子供だった当時のことを、その時の感情とともに今でもはっきり覚えている。当時の私は、大勢の遊びをいつも楽しんでいたわけではない。本当は私の兄を中心にした4~5人のグループで遊ぶのが一番楽しかった。本人はのどかなものだったが、私は時々兄が他のグループの同世代の子供からは少し軽く見られることがあったのが腹立たしいこともあった。

子供の世界はつらいと思い、楽しそうな大人の世界に憧れるが、実際に経験した大人の世界は思った以上に厳しいものだった。結局生きていくことの厳しさは大人も子供も一緒だったということかもしれない。こんなことなら今度生まれ変わったら大人の世界に憧れたりせず、天真爛漫に子供時代を思いっきり楽しんでみたいものだ。