無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8994日 オリンピック終了

オリンピックも終わって通常の生活が戻ってきた。この2週間、朝から晩まで本当に楽しい時間を過ごさせてもらった。いろんな種目のトッププレーヤーが一堂に会して競い合う姿は、大型テレビの素晴らしい映像美と相まって、他のどんな映像作品も寄せ付けないだけの価値があった。これは58年前に、中学1年生が小さな白黒テレビで経験したオリンピックとは一味違った新しい発見でもあった。

また、昨日終わった今回のオリンピックと58年前の東京オリンピック終了後の感覚は少し異なっている。前回は終了後ポストオリンピックといって陸上選手がやってきて競技を見せてくれたり、社会全体に上昇機運が漂っていたこともあったのかもしれないが、一番の違いはこの後自分自身に洋々たる前途が開かれていると信じていたことだろう。

たわいのない子供の妄想であったとしても、希望を持つことはあらゆる力の源になる。その前にあっては、社会科の授業を中断してクラス全員でテレビ観戦したマラソン、円谷とヒートリーの劇的な争いで幕を閉じたあのオリンピックも一時の感傷でしかなかった。

しかし、今回終了後には洋々たる前途など存在しない。それどころか今あるのは、58年前に感じていたであろう洋々たる前途をすべて消化しつくした、残りかすみたいなものかもしれない。そこにはもう力の源は存在しない。

確かにそういう力は存在はしないが、そうであることが悪いことかというとそうとばかりはいえない。あらゆるものを切り捨てながら収束へ向かうという現実を理解し始めると、過ぎ去るものに対する感情は希薄になる。これは子供の時にはわからなかった。今回楽しませてくれたオリンピックも過ぎ去ってみれば、前回の時に感じた一時の感傷すら残らないというのはそういうことなんだろう。

年を重ね残りかすになり、死へ向かうこの人生の現実を理解できたからこそ、過ぎ去るものにとらわれなくなった。そしてそれは死への恐怖を和らげる力ともなり、最後に生存への希望を捨てる力となるのではないのだろうか。