今年も大東亜戦争終戦の日がやってきた。戦争に参加した当事者は誰もいなくなり、この地で行われた慰霊祭で慰霊文を読んだのは、戦死者の娘と紹介された高齢のご婦人だった。心ならずも戦争に引っ張り出されたというような話をされていたが、残された家族からしたらそれはその通りなのかもしれないとしても、それでも何かしっくりこなかった。いかなる理由があろうとも祖国を守るために戦死された方に対する言葉として適切なのか疑問に感じている。
この文章は役人の作文だろうが、この役人の頭の中は戦後の日教組教育が染みついているに違いない。日教組による戦後教育は、日本人が戦争を総論としてとらえることを阻害し、各論で重箱の隅をつつくような話に誘導してきたとも言える。
例えば、先ほどの「心ならずも戦争に引っ張り出された」と主張すること、或いは「残された家族が苦労した」ということなど、個人レベルの感想を述べることが各論とすれば、戦争に対する国民意識をこのレベルに留めておくことで、力を削ぐことができる。これによって一体誰が得をするのか。ちょっと考えればわかることだ。
確かに「戦争は嫌だ」「平和が良い」「話し合いで解決すべきだ」これらは各論的にはすべて正しいし誰も反対できない。しかしこれが今の日本国民のレベルだとしたら、いくら軍備拡張したところで、総論として戦争をとらえている世界のどの国とも対等に渡り合うことすらできなくなるだろう。
まあ、そんなことを言ってみたところで、すぐに頭を改造するのは無理だから、まずは、心ならずもなどと個人的な感想を言う前に、すべての戦死者に対して、「今の日本の繁栄の礎となってくださった皆様ありがとうございました」とお礼を言うことから始めたらどうだろう。それこそ総論として戦争を考えるための第一歩となるのではないだろうか。
そもそも当事者がいなくなったのに、今のような形で大東亜戦争だけの慰霊祭を続ける必要があるのかどうか。切りのいい80年くらいで止めたらどうだろう。