無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8977日 古事記を読む

古事記朗読もしばらくやめていたが、そろそろ再開してみようかと思っている。今確認してみると神代巻は2年以上かかって140回読んでいる。当時、相曾誠治氏が推薦していた幸田本を探してみたが見つからないので、幸田本を底本にしたと紹介されたいた「朗読のための古訓古事記」という本をネットで見つけて購入し、その中の古事記上巻「天地の初発の段」から「鵜葦草葺不合命の御子等の段」までをコピー、製本して利用してきた。コピー用紙なので紙質が悪く、周囲が擦り切れてボロボロになっている。

再開するにあたって、今回は上巻、神代巻だけでなく中巻下巻通して読んでみようと思っている。ただ全巻となると100回は無理なので、ひとまず10回朗読を目標にしてみるのもいいだろう。217頁あるから1日3頁として70日という計算になる。読まない日もあるので100日と見ておけばいけるかもしれない。

以前140回読んだ時に感じたのだが、古事記という書物は如何様にも読むことができる。荒唐無稽な戯言をつらつらと書き並べただけの滑稽本のようでもあり、象徴として何かを表そうとしているのかのようでもあり、何を感じるかは読み手の能力次第かもしれないが、単に物語として読んでいる間は、本当のところは理解できないような気がしている。

書店で漫画になった古事記を見たことあるがそれはそれで面白かった。しかし横山光輝ゴマブックスの「太平記」ならそれでいいんだろうが、私には古事記を漫画で読む意味がわからない。特に神代巻に出てくるのは人ではなく神であることを無視している。素直に神を神として読むことが大切なのではないかと思っている。

そうは言っても古事記は読んで面白い本ではない。神代巻を140回読むとさすがにストーリーは全部覚えてしまったが、その結果理解したことは、ストーリーを追うことの無意味さだった。ストーリーならのゴマブックス太平記の方がはるかに面白い。それでも読もうと思うのは、言葉にならない何かが意識の中に感じられる日が来るのではないかという、ほのかな期待があるからかもしれない。