無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8937日 流れゆく日々

今では死は意識の中だけでなく、すでに肉体的な衰えの中にも感じられるようになってきた。果たしてこの70年を貴重な時間として有効に活用できたのかと自問するとき、すべてを肯定することには躊躇いがあるにしても、少なくとも後悔することは無い。結婚し子供が生まれ、子供の成長過程をともに元気に過ごせたこと、そして最後に両親を見送ることができたということで、十分おもしろい人生だったと思う。もちろんこれは結果論かもしれないが、人生とは死によって浮かび上がってくる結果だとすれば、それでいいのではないだろうか。

若い頃、最高に輝いていた時代の生の喧騒も死への目覚めも、その後のゆっくりと広がって流れていく人生への助走期間だったような気もしている。そうであるならば、今から思えばもう少し柔軟で穏やかな生き方もあったのかもしれないし、生きることそのものを素直に楽しめばよかったのかもしれない。こうあるべきだとか、そうするべきだとか、人生にそんな規制を持ち込まないほうが良かったのかもしれない。理想と現実のギャップに悩むことなく、その時代をその時代なりに楽しめばよかったのかもしれない。

また逆に、あの時代をあのように生きたから今の自分があると言えるのかもしれない。こんなことをいくら考えても結論はでない。とにかく大きな流れに乗って旅をしてきた先に今があり、今を肯定できるならば、すべてがそれでよかったと言えるのではないだろうか。

結局のところ何が一番楽しかったかと聞かれたら、それは理屈抜きに子供らと一緒に過ごした時間だと答えるだろう。別にクンダリーニが動く必要もないし、チャンネルを回す必要もない。知らなくてもいいことは知らなくてもいい。流れゆく日々のなかで、他に何かを求めるのではなく、自分が責任を果たし、するべきことをして、今そこにある幸せに気付くことができれば、それだけでいいのではないだろうか。