無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8718日 ダチョウの平和

今のウクライナの状況を見ていると、相互確証破壊という考え方の正しさが改めて証明されたような気がする。ウクライナに核を残しておけばロシアは絶対に侵略しなかったはずだ。特に今回の場合、国連の常任理事国がためらうことなく核で恫喝しているのだから、核拡散防止条約などというものの欺瞞性が白日の下にさらされたというべきかもしれない。

ロシアが核を使うとか使わないとかが、当たり前のように毎日のニュースで語られているのを聞いているうちに、核に対するハードルが気持ちの上で少し低くなったような気がしている。フィンランドスウェーデンがあわててNATOに入ろうとするのもさもありなんだ。他国に勝手に攻め込んで破壊や殺人を犯しておきながら、通常兵器で返り討ちに遭いそうになると、核で更地にしてやるなどと言うやつから身を守るためには、自らが核を持つしかない。

北朝鮮などという忘れられた存在が、時々世界中で報道されるのも核兵器を持っているからであり、中国やロシアの恫喝も核をバックにしているからできることだということは誰にでもわかる。そんな国に囲まれていながら、日本には非核3原則があるなどと本気で言っている総理大臣がいるが、いったいどうやって日本国民の安全を守るのつもりだろう。

非核3原則は法律でもないし、国民はそんなものに手足を縛られる覚えはない。そもそも在日米軍がいる以上、それ自体が机上の空論であることはほとんどの国民が知っている。この期に及んでの非核3原則発言も、戦後70年の間、国防はアメリカに任せて、お花畑でそんな言葉遊びに明け暮れてきた結果だとしたら本当に困ったものだ。

少なくともアメリカの核の傘は認めている以上、日本を核攻撃する国があれば、アメリカの核による代理報復を期待していることは間違いない。その一方で非核3原則とは明らかに矛盾している思わないのか、或いは何も考えてないのか?

最近では核について議論してもいけないというのが加わって、非核4原則と言われることもあるが、これだけロシアの核について論じられても、それでは日本は核からどのように守るべきかと言う話にはならない。常に他人事だ。議論もできないから核攻撃から国民を守るシェルターさえも作ることができない。ダチョウの平和か?言霊を恐れるにもほどがあるだろう。

国防に関しては、すみません間違っていましたでは済まされない。どうやって国民の命や生活を守っていくか、それには何が必要か、いくらかかるか、タブーを作らずきちんと議論してほしいものだ。