二等兵物語や兵隊やくざなどの戦争物の映画や、神聖喜劇などの書物でも紹介されているように海兵団や陸軍内務班の私的制裁はひどかったようだ。30年も前になるが、海軍兵曹長で終戦を迎えた叔父の葬式で、海兵団からの親友という人が、笑いながらではあるが、釜焚き訓練で叔父がひどく殴られていたという話してくれた。
叔父は機関部だったが、機械やボイラーは体がきつい、その点電気は体が楽なので電気の学校に行かせてもらったんだと話してくれたことがあった。よく戦争があったらもう一回行くぞと話していたから、制裁に対しての受け止め方も違っていたのではないだろうか。頭もよくて陽気な人柄だったから、要領もよかったんだろう。
さて、昭和20年になると戦争疲れかどうか、皇軍もタガが緩んできたようだ。この当時のことで面白かったのは、タイトルは忘れたが高知44連隊の元兵長が書いた本で、連隊のあった朝倉から高知市内まで作業に出るのに、歩くのはしんどいといって、途中から勝手に市内電車に乗って目的地まで行ったものがいたらしい。しかも何のお咎めも受けなかったというから驚いた。
同じ頃、昭和20年6月に父は営林署のあった襄陽で2度目の召集令状を受け取った。
-------------------------------------------------------------------------
昭和20年6月某日
江陵営林署襄陽森林保護区、造林事業所主任兼務 ○○ 光州に出頭
ということで、大至急光州に出頭しなければならなくなった。
営林署から招集されるのは珍しかったので、多くの人から合わせて3000円もの餞別をもらった。感覚的には今の200万くらいだろうか。私物は持っていけないので、水原にいた元営林署長に2000円預けた。入営後、元所長の部下が少尉の軍服を着てその2000円を返しに来たが、必要ないので預かってくれるようお願いした。しかしその後軍隊でも金は役に立つことを知り、おおいに後悔した。
訓練と言っても擲弾筒を持って走り回っただけで大したことはやってない。陣地構築(スコップで穴掘り)をやるといっても肝心のスコップがないので、自分で調達するように言われた。軍隊にさえ無いのにどこで調達するんだ。結局道具がないということで済州島に運ぶ米を港まで運ぶ作業をやらされた。そこで金が役に立った。
7月になると南朝鮮も暑いのでスイカや甜瓜なんかを買ってみんなにふるまった。食べ過ぎて腹を壊してひどい目にあったが、みんなに喜んでもらえた。結局預けた2000円は終戦のドサクサで返ってこなかった。
-------------------------------------------------------------------------
作業の途中でスイカや甜瓜を買って勝手に食べるというような行為は、先ほどの元兵長の電車に乗った話と同様、昭和16年の招集では考えられなかったはずだ。そうこうしているうちに父の所属していた中隊に出動命令が出て、トラックで水原高等農林学校の宿営地へ向かうことになった。