無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8463日 冷汗三斗目黒雅叙園

「あと8490日ポインセチア炎の恋をしてみたい」を書いていて思い出したことがあった。怖いとか恥ずかしい思いをして冷や汗をかいた経験は誰にでもあると思うが、あれは確か昭和57年の2月ごろの事だった。

数年に一度の、俳句結社「渋柿」の全国大会が目黒雅叙園で行われることになり、お世話になっていた凡草先生に大会の集合写真を頼まれた。当時の私にとってはかなり高額だった参加費は出してくれて、その上東洋城全句集全3巻も頂けるということで、一も二もなく引き受けた。

その時は雅叙園がどんなところか全く知らず、学生時代にアルバイトでよく行っていた卒園式入園式、ヤマハ音楽教室発表会程度の事と軽く考えていた。しかし凡草先生からなぜ雅叙園かという話を聞いているうちに、だんだんと気が重くなってきた。

日本画家礒部草丘が描いた天井画や襖絵がある草丘の間というのがあってな、これだけでも見る価値はあるぞな。」と切り出した凡草先生は、「実はこの礒部草丘は礒部尺山子という渋柿の俳人でな、選者になってもよかったんだが早くのうなってしもた。」と残念そうに話してくれた。とにかく格調高い場所らしい。

東洋城最後の地として自宅を提供していた凡草先生の話を聞いていると、その広い交友関係に驚かされることが多々あった。俳句とはそういうもので、奥様の立花女先生が言われた言葉が思い出される。「○○さん、俳句の世界は面白いでしょう。大学を出て、医者だ教授だと偉そうにしている人たちが、小学校しか出てない喜舟先生に教えを乞うんですからね。でも、小学校しか出てないけれど、俳句の事に関しては誰にも負けないくらい勉強している人なんですよ。」

tysat1103.hatenablog.jp閑話休題、全国大会当日、職場にあったPENTAX6x7とハスキーの三脚を抱えて雅叙園に向かった。全国から選者級の人達や熱心な俳句愛好者がたくさん集まっていた。100人くらいはいただろうか。まず初めに写真を撮ることになった。

広い会場で撮るものと思って標準レンズ一本だけ持ってきていたのだが、撮影場所として案内されたのは雅叙園内の写真スタジオだった。そこに入った瞬間これはダメだとわかった。標準レンズでは一番後ろまで下がっても全体が収まらない。一瞬途方に暮れたが、そんな事情にはおかまいなく、参加者は次々と入ってきて誘導されて並び始めた。

わきの下を冷や汗が流れた。こちらも一応写真のプロではあるし、全国大会の集合写真が撮れませんでしたでは済まされない。何とかしなければとあたりを見渡した時、今入ってきた入口が被写体と対面していて、しかも中心にあることに気が付いた。

既に整列が終わり、雅叙園の人がドアを閉めようとしていたが、訳を話してその両開きのドアを一杯開放してもらい、スタジオを出た廊下にカメラを据えた。壁にケラレルことも無くきれいに全体が収まったのを確認した瞬間、一気に全身の力が抜けたような気がした。

無事終わってほっとしたが、この時の事はつい最近まで夢に見ることがあったから、かなりトラウマになったことは間違いない。

その後の句会の席題は「星」だったと思う。

提出した「見上ぐれば 凍てつく星の 宴かな」 これが選者に選ばれたのはうれしかった。

ずいぶん遠ざかっているが、こうして時々思い返してみると、俳句の世界もなかなか味わいのあるもので、できるなら今は亡き凡草先生、立花女先生にもう一度俳句を教えていただきたいものだ。