だいぶ歳も取ったせいで昔のことがいろいろ思い出されるようになった。今思うと生まれてからの20年はゆっくりと時間が流れて行ったが、それ以後の50年はほんとうに慌ただしかった。その50年の間にいろいろな人と出会ったり別れたりを繰り返してきたが、SNSの無い時代はあっさりしたもので、別れてしまえばそれっきりになってしまった。
船乗りをやめてラインパイロットになろうと思い、JAL、ANA、TDAの自社採用試験に向けて受験勉強をしていた昭和50年3月の終わりごろに自社採用中止のニュースが流れた。不況と人余りで復活の見通しは無しということだった。万が一来年以降あったとしても年齢制限のため受験資格はないのであきらめた。
その当時中野の4畳半一間で8000円の下宿に住んでいたが、同じ下宿に日大理工学部3年で航空宇宙工学専攻の学生がいた。名前は忘れたが鹿児島県立大口高校出身で当時はやりの人力飛行機の操縦員をやっていた。自家用航空機の免許も持っていていろいろ飛行機の面白い話を聞かせてもらった。
人力飛行機は日大だけでなくでなく世界中の大学や個人が競っていたが、当時はまだ飛行距離数十メートルの争いだった。週末になると開港前の成田空港滑走路を使って練習していると話していた。しかし人生うまくいかないもので、足腰を鍛えるために乗っていた自転車でこけてけがをして練習できなくなってしまった。これは気の毒でかける言葉もなかったが、その後回復して早く復帰できたからよかった。
同じ下宿には他に東大理学部の学生、中央法学部の学生と予備校生がいた。面白かったが一階にいた大家さんが変わった人で、一部屋に集まって話をするのはうるさいので禁止だと言われた。そんなにうるさいのなら下宿屋なんかするなよと思った。しかし5人の若者が一つ屋根の下で暮らしているんだからどだい無理な話だ。ストレス解消のため一度だけ宴会をやって翌日に大目玉を食らったことがあった。
ここには一年しかいなかったのでその後のことはわからない。電話は大家さんの家の呼び出し電話だったので面倒だったし、その後の消息は途絶えてしまった。ただ富山県砺波市出身で、お父さんが地方紙の記者をやっていた予備校生からは成蹊大学にいくことになったという連絡があった。みなさんとっくにリタイアしているだろうが元気でいるのだろうかと時々思い出す。