無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7914日 敷島隊関中佐の母

先日ユーチューブで四国の山奥を車で走る動画を見ているときに石鎚小学校跡が出てきた。そこはすでに廃校になり、石鎚山の山裾旧石鎚村の深い山の中で朽ち果ててしまっていた。この名前を聞いた時ピンときた。そう軍神の母、関サカエさんの終焉の地だ。戦後、軍神は戦争犯罪人とも呼ばれ、軍神の母は戦争協力者の母と呼ばれ、特攻は犬死とまで言われた。そんな中で昭和28年11月9日関行雄中佐の母関サカエさんはここで亡くなった。行年55歳だった。

戦後息子の軍人恩給は廃止となり、知人宅の物置小屋に住まわしてもらいながら草餅の行商で糊口をしのいでいた。ちょっと前まであれほど顕彰を競い合った愛媛県西条市からも掌を返したように無視された。昭和23年8月になり知人の紹介でこの石鎚小学校の子使いの職を得てようやく安定した生活を送れるようになった。サカエさんは大変喜んだ。森史朗著「敷島隊の五人」にはこのように紹介されている。

この本を読んだのはもう30年も前になる。特攻という攻撃方法を間違っているというのは勝手だが、死んでいった人やその家族を責めることだけは許せない。石鎚小学校とは石鎚山のもっと麓のほうで、簡単に行ける場所なのかと思っていた。動画を見てこんな辺鄙なところにあったのかと驚いた。ただ町からから遠く離れていることで、雑音に悩まされることなく子供らとの楽しい生活を送ることができたようだ。

廃墟となった石鎚小学校の跡地はあと10年もしないうちに何の痕跡もなく消え去ってしまうことだろう。そしてそこで敷島隊関中佐のお母さんが小使いとして働き、亡くなったという事実を知る人もいなくなるだろう。もちろん過ぎ去ったことが歴史の中に埋もれいくのは仕方がないのかもしれないが、大東亜戦争はたった80年前のことだ。若くして国の礎となって死んでいった人たちが蔑ろにされていいわけがない。

今でも多くの遺骨はアジア太平洋に残されたままだ。本来なら国を挙げて、地の果てまで行ってでも収集するの当たり前ではないのか。国の命令で戦地へ送られ、そこで亡くなった人たちに対するそれが生き残った者の責任だと思うが日本人はいったいどうなってしまったのだろう。生き残った者が勝手に手打ちをしただけで、その人たちにとっての戦争はまだ終わっていない。