昭和21年12月21日、マグニチュード8.0の地震が発生し西日本一帯に大きな被害をもたらした。終戦直後のことで今のような手厚い援助も無く、被災した人たちは貧困の中、自力で再興するしかなかった。傾いて住めなくなった家を、伯母は昭和29年に苦労して再建した。その家は天井もない荒壁を塗っただけの粗末な家だったが、小さい子供3人抱えて戦争未亡人となった伯母は本当に強い人だったと、歳をとるにつれて思うようになった。
私も含めてだが、今の時代を生きる我々にその強さが失われてきているのではないだろうか。生きることが当たり前、助けてもらって当たり前、責任はとらないが権利は主張する、社会が悪い、学校が悪い、法律が悪い、そしてもっと悪いことには、そういう人たちを擁護する人たちがいる。生きるのに困らないから、生きるということが軽くなってしまったような気がしている。
昨今話題になっている女子体操選手の飲酒喫煙問題にもその一端が現れているような気がする。未成年であり内規違反でもあるようだ。それなら謹慎か出場停止か当然何らかのペナルティーは受けなくてはならないだろう。ところが今回はペナルティーではなく本人の意思で五輪出場を自粛するというから訳がわからない。
飲酒喫煙など未成年大学生はやっているんだからと擁護する人たちもいるようだが、それは社会的に問題にならなかっただけで、公の問題になった時には当然罰を受けることになる。大学生であったとしても未成年なら許されない。
若い時の一度の過ちを許さない日本の社会が窮屈で生きづらくなっているなどと軽佻浮薄なことを滔々と述べている人もいるようだが、失敗にも許される失敗、許されない失敗がある。たとえば喫煙を親に見つかってこっぴどく叱られてもそれでおわりだが、同じ喫煙でも学校の教師に見つかるとそうはいかない。当然社会のルールが適用されて家庭謹慎とか特別教室で反省文とかになるだろう。これがたった一度の失敗であろうがなかろうが、社会が窮屈とか生きづらいとかいうことと何の関係もない。
選挙権はあるのに飲酒喫煙で処罰はおかしいという人もいたが、法律はそうなっているんだから仕方がない、としかいえない。二男は高校生の時に喫煙で処罰されたが全くおかしいとは思わなかった。19歳も17歳も法律的に未成年には変わりない。ばれなければ若い時の小さな失敗で終わるが、それが公になれば罰をうけるのは当たり前だ。オリンピック代表選手という肩書も法の前では無力のはずだ。そうでないという人たちがいるとしたらあの児島惟謙も草葉の陰で泣いていることだろう。
おそらく日本のサイレントマジョリティーにとってはどうでもいい問題だろうと思う。今更スポーツで国威発揚でもあるまいし、誰もオリンピックに出てくれと頼んだわけでもない。私も含めてだが、今回の件が表ざたになるまで、頑張っているから勝てればいいねくらいの感覚だっただろう。ただ、トップになるまで節制しながらやり遂げたことは偉いとそこは尊敬できる点ではあったが、その部分にケチが付いたのは残念だ。
この件について様々な議論を聞いていて、なんか釈然としない人はたくさんいるのではないだろうか。善悪はコインの裏表みたいなもので、絶対の善、絶対の悪は存在しないとはいえ、正しく真剣に生きるという一つの軸は存在しているはずだ。それが生きる力につながってこそ公正さが保たれているのではないだろうか。最近、社会経験を積み本来社会を律するべき立場に立ったはずの人達に感じられるこの軽さはどうしたことだろう。ほんとうに生きることが軽くなってしまった。