「東の野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」
この柿本人麻呂の歌を小学校6年の国語の教科書で初めて見たとき、先生の説明を聞きながらなんと穏やかな時代なんだろうと感じていた。人口密度も少なく、人々は原始的生活ではあるが、広々とした自然の中でゆったり暮らしていて羨ましいと思った。奈良とか天平とかいうと何となく優雅な響きがして、憧れたものだった。
中学生になって最初の国語の教科書の見開きに、遠方に大和三山を望んだ写真があった。今から思えばおそらく甘樫丘あたりから撮ったものではないかと思うが、満開の桜の向こうに見える畝傍山、耳成山、天香具山がきれいだった。奈良に行ってみたいと思うようになった。
奈良大和へ行ったのは、中学2年の春休みに親に頼み込んで行かせてもらったのを皮切りに、その後仕事で行ったのを含めると10回以上になるが、日本人のルーツにも連なる価値ある場所で、興味深いところではあった。しかしその見方は歴史を知るにしたがってロマンあふれる憧れの場所から得体のしれない恐ろしい場所に変わってしまった。
そこは皇位を親兄弟と争い殺し合い、邪魔になれば天皇でも殺すというおよそ日本人の感覚とはかけ離れた権謀術数の世界で、もしもタイムマシンで行ったとすれば、今の日本人では到底生きてはいけないだろう。先の人麻呂の歌にしても決してのどかなものではなく、その底に流れるのは自分の将来を左右するであろう血筋に対する恐れなのかもしれない。
貴族や官吏はまだましな方で、山上憶良の貧窮問答歌なんかをみると農民の生活なんかみじめなものだ。結局後世に残る歴史とは社会の上澄みに過ぎないとはいえ、それを毒にも薬にもならない教養として求めている多くの現代人が、大化の改新も聖徳太子一族皆殺しも、長屋王一族皆殺しも大津皇子暗殺も崇峻天皇殺しも、自分には関係ない一幕の芝居を見るような気持で面白がっているが、それも困ったものだ。
近い将来、そんな明日の命もわからない時代に生きることはないとは思うがそれはわからない。遠い昔のことだといったところでたかだか1300年程前の話だ。1万年続いた縄文時代に平和に暮らしていた日本人がなぜ殺し合いを始めたのだろうかと考えるとき、渡来人の影響なしには考えられない。ヨーロッパをみてもわかるように、全く違った風土で育った人種が増えると様々な軋轢が生じることは今も同じだ。
古代日本でも多数の渡来人によって国柄が変わってしまったのだろう。恐ろしいことに現代日本でもそれが進みつつあるようだ。いいかげんに気が付かないと皆殺しの世界がそこまでやって来ているのかもしれない。祖先が培ってきたこの穏やかな風土を守るにはどうすればいいのか真剣に考えるべき時がきているのではないだろうか。歴史を知るということは一幕の芝居を楽しむだけでなく、それを通して今を知るということだと思っている。