無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7848日 「ぼけますから、よろしくお願いします」

先週近所の福祉センターで上映された「ぼけますから、よろしくお願いします」を観に行った。去年観たものの続編で、アルツハイマーを発症した母親の亡くなるまでの映像記録だ。私ならこのような撮影はご免こうむりたいが、製作者が映像作家である実の娘なのでとことん協力してもらえたのかな。

私も含めてあの場で観ていた観客のほとんどは、程度の差こそあれ近い将来の自分の姿を見ているようで、身につまされる思いになったのではないだろうか。ところがどうしたことか時々笑い声が聞こえてくる。笑うところではないように思うんだが、中にはそうでない人たちもいたようだ。

それはぼけて自分がわからなくなった母親が錯乱するシーンだった。これが喜劇映画で喜劇役者が演じているのならまだわかるが、これはそうではない。あのシーンを見て笑える人の神経はよくわからない。自分とは関係ない別世界の出来事だと思って観ているのかもしれないが、想像力の働かないお気楽な人たちがある意味羨ましい。

有吉佐和子作「恍惚の人」を読んで、人がこのようになるのかとショックを受けたのが21歳の時だった。それから50年たってあの茂造さんの年代に達したわけだが、たしかに物忘れは増えてきた。スーパーに買い物に行って、さて何を買うつもりだったのか?或いは2階へ上がったのはいいが、いったい何をしに来たのか?こんなことは別にめずらしいことではない。ここらあたりまでは誰でも来るらしいが、問題はその先だ。

民生委員になってこの4年間でも、認知症がすすんで施設に入った方も何名かいた。そして認知症の進み方は驚くほど速かった。始めはシャッターを閉め忘れるようになり、開いていることを伝えると自分で閉めていた。それが自分で閉められなくなり、最後には閉めること自体を忘れてしまう。このように普通にできていたことがだんだんできなくなり途方に暮れてしまう姿をみていると、若い頃から知っているだけにつらいものがある。

私の母親は近所の人達と、岡山にあるぼけ封じの寺にお参りに行って、これで大丈夫と冗談を言っていたら、確かにぼけなかったがぼける前にガンで亡くなってしまった。これもぼけ封じの御利益があったといえなくもない。今から思えばぼけずに85歳まで元気に生きたのだから、考えようによっては良かったと言えるのかもしれない。