無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7608日 郵便配達は二度ベルを鳴らす

芸術作品に対する不自然な編集やカットが行われたとき、私たちはしばしば、その作品が本来持っていた魂や、作者が伝えたかった本質的な感情の流れを見失ってしまう。UNEXTで鑑賞したルキノ・ビスコンティ監督の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』もその一例ではないかと感じた。この作品は40年ほど前にも文芸座で見たことがあったが、今回視聴中、特にセックスシーンが不自然に、あるいは大きくカットされているように思え、物語の進行や人物の心理の変化が理解しづらくなっていた。物語の核ともいえる登場人物たちの欲望や葛藤が、その身体的な接触の中で表現されているはずなのに、そこが削られていることで、まるで文脈の一部が失われたような感覚に襲われた。

もちろん、映像配信サービスには年齢制限や倫理的配慮といったルールがあることは理解している。しかしながら、作品の表現が持つ力や意味は、その一場面一場面が積み重なることで成り立っているものであり、特定のシーンを切り取ることで全体の意味が歪められてしまうこともある。特にビスコンティのような芸術性と心理描写にこだわる監督の作品では、そうした編集は深刻な影響を及ぼすのではないだろうか。

芸術とは、時に不快であったり、刺激的であったりするが、それこそが観る者の感情を揺さぶり、問いを投げかけ、社会の在り方までも映し出す力を持っている。その力を、鑑賞者の代わりにフィルターを通して弱めてしまうことが、果たして「配慮」と呼べるのだろうか。むしろ、観る側に本来あるべき「選ぶ自由」や「考える自由」を奪ってはいないだろうか。

私は今回の体験を通じて、芸術作品が本来の姿で届けられることの重要性を強く感じた。たとえそれが挑発的であっても、不快であっても、それをどう受け止めるかは、観る者自身が決めるべきだ。カットされた映像の向こうに、本来あるべき物語の熱量があったのだとしたら、それを感じ取れなかったことが、今なお心にしこりのように残っている。芸術の自由とは、制作者の自由だけではなく、受け手の自由でもあるのだということを、私たちは忘れてはならないと思う。

今回の映像の一部が本当にカットされているとしたら、ビスコンティの作品として提供するべきではないと思うがどうだろう?