無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7575日 終戦の日の特攻ー宇垣中将はなぜ飛んだのか

昭和二十年八月十五日、正午。昭和天皇玉音放送が全国に流れ、日本は連合国に降伏した。国土の焦土化満洲の混乱、沖縄の地獄、都市の廃墟、飢え、病、そして死――それらすべてを呑み込んで、戦争はついに終わった。

ところがその夜、夏草茂る大分飛行場から、ひとつの異様な航空出撃が行われている。海軍中将・宇垣纏(うがき・まとめ)率いる特攻隊が、沖縄方面に向けて飛び立ったのだ。十一機の彗星艦爆。宇垣は自らその一機に乗り込み、部下二十二人と共に沖縄を目指し、そのまま消息を絶った。彼らは、終戦の日に命を絶った「最後の特攻隊」であった。

 

「過去半年にわたる麾下各隊の奮戦に拘わらず、驕敵を撃砕し神州護持の大任を果たすこと能わざりしは本職不敏の致すところなり。本職は皇國無窮と天航空部隊特攻精神の昂揚を確信し、部隊隊員が櫻花と散りし沖縄に進攻、皇國武人の本領を發揮し驕敵米艦に突入撃沈す。指揮下各部隊は本職の意を體し、来るべき凡ゆる苦難を克服し、精強なる國軍を再建し、皇國を萬世無窮ならしめよ。

天皇陛下万歳

昭和二十年八月十五日 一九二四      機上より   」

 

戦後この行動は、長らく物議を醸してきた。「戦争が終わっているのに部下を道連れにするとは何ごとか。一人で死ねばよかった」という批判は、特に戦後民主主義の成熟とともに強まってきた。たしかに、現代の感覚では到底容認しがたい。だが、当時の精神状況、そして軍隊という共同体の特異な倫理の中にあっては、我々の目には映らぬ別の風景が、彼らの前には広がっていたのかもしれない。

搭乗員の多くは、予科練出の若者たちだった。十五、六の年端もいかぬ少年が、国家に命を預け、忠君愛国の教えに従って訓練を受け、仲間とともに戦地に送られた。昭和十九年以降、特攻という戦術が常態化すると、若者たちは「死ぬこと」こそが自分の存在意義であると教え込まれるようになっていた。生き残ることにすら罪悪感を覚えるような空気が、確かにそこにはあった。

宇垣中将の行動は、そうした風潮の極北にあった。彼自身、日露戦争以来の伝統的な海軍軍人であり、敗戦によって自己の存在すら否定される感覚を味わっていたに違いない。実際、戦喪録には終戦を迎えた直後、激しい虚脱感と怒りが記されている。「これで何が残るのか」という、無念と絶望。あるいは、すべてを賭けてきた人生への幕引きを、自らの手で飾りたいという思いもあったのかもしれない。

問題は、そこに部下を同行させたという点である。命令だったのか、志願だったのかは今となっては判然としない。ただ、当時の証言には、「自分も行きたい」と申し出た者がいたという話もある。彼らにとってもまた、「死に場所を失った敗軍の将兵」として、宇垣の行動にある種の救いを見た可能性はある。

無論、それをもって正当化することはできない。戦争が終わった以上、一人でも命を繋ぎ、生き抜くことこそが、真の責任であったはずだ。しかし、極限状態に置かれ、死と隣り合わせの日々を生きてきた者たちが、終戦を「安堵」ではなく「空白」として受け取ったことも、また事実としてある。

宇垣中将の出撃は、狂気か、忠誠か、悲劇か。現代人の価値観だけで断じることは容易ではない。だがこの行動を通じて、私たちはあの戦争が、いかに人の感情や倫理すら変えてしまう異常な時代だったかを改めて思い知らされる。

終戦から八十年が過ぎた今、宇垣の飛行を語ることは、けっして過去への郷愁でも英雄視でもない。ただ「なぜ、そうまでして人は死なねばならなかったのか」と問い続けたい。