昭和十九年秋、フィリピン戦線において日本軍は正念場を迎えていた。レイテ島に上陸した米軍に対し、陸海軍を挙げた反撃が行われたが、その戦況はすでに絶望的であった。そんな中、二人の高級指揮官が、まったく異なる決断を下すことになる。陸軍の富永恭次中将と、海軍の有馬正文少将――彼らの生き方の差異は、指揮官としての覚悟とは何かを鋭く問いかける。
富永は第四航空軍司令官として、ルソン島の防衛を指揮していた。だが戦局が悪化すると、彼は司令部を放棄し、自らの幕僚と共に空路台湾へと逃れた。補給の絶たれた兵士たちを前線に残したままの脱出は、明らかに司令官としての責任放棄であり、部下たちからは「見捨てられた」と激しい怒りを買った。戦後、富永は自らの行為を「戦力温存のため」と釈明したが、すでに戦局は崩壊しており、合理性という言葉で塗りつぶせるものではなかった。
一方、有馬正文少将はミンダナオ島ダバオに本拠を置く第二六航空戦隊の司令 として航空兵力の再建に腐心していた。米軍の圧倒的な空襲力を前に、特攻という手段が現実味を帯び始める中、有馬は部下に命じる前に、自ら先んじて出撃する道を選ぶ。1944年10月15日、彼は階級章を外し、一式陸攻の一番機に搭乗して台湾沖へ向けて飛び立った。帰還は叶わず、彼の搭乗機は未帰還となった。
だがこの出撃は、正式な“特攻”ではなかった。有馬はあくまで通常攻撃の編隊に加わり、「死ぬ」とは明言していない。だが、一式陸攻の生還率の低さからその意図は明白であった。高級将官として、安全な後方にとどまるのではなく、自ら先に死ぬ――その覚悟は、言葉ではなく行動で示された。
奇妙なことに、この行為は大本営によって大々的に報じられることはなかった。特攻という戦術を喧伝するには絶好の題材であったはずなのに、である。その理由は明白であろう。有馬の姿勢があまりに「潔すぎた」からだ。彼の死は、年若い兵士に無謀な突撃を命じ、自らは後方にとどまる将官たちの姿勢を鋭く批判しているかのように感じた人達がいたからではないだろうか。だからこそ、多くの上層部にとって、有馬の死は「危険な模範」であり、沈黙の対象とされたのだろう。
もちろん、有馬の特攻が戦局を変えたわけではない。だが、彼が示した「指揮官としての矜持」は、極限状況における一つの理想像として、後に続く者に道を示したと言ってよい。対して、富永の名は、今なお「無責任の象徴」として語り継がれている。
戦争は極限の場である。そのなかで、上に立つ者がどう振る舞うか。そこに、ただの命令系統以上の、人間としての格が露わになる。戦場においては、口で語る以上に、行動がすべてである。富永は生きて責任から逃れ、有馬は死をもって責任を果たした。その差は、時間が経っても決して埋まることはない。