無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7559日 「労働人口減」という幻想と「ゆとり教育」

日本社会の将来を語る際、もはや「労働人口の減少」は常套句となっている。経済成長の足かせ、福祉の財源不足、地方の衰退――あらゆる問題の“元凶”として語られるその数字を根拠に、自民・公明両党は外国人労働者の受け入れ拡大を「やむなし」と正当化する。

だが本当にそうなのか。少なくとも、「まず日本人が存分に働ける仕組みをつくったのか」という問いには、明確に「否」と言わざるを得ない。

「103万円の壁」「130万円の壁」など、配偶者控除社会保険の仕組みによって、多くの日本人が望む就労時間を確保できない状態にある。家庭を支える主婦も、子育てや介護を経て復職したい女性も、フルタイムで働くには不利な税制と制度上の壁に阻まれている。

また「働き方改革」と称した残業規制や有給休暇取得義務なども、現場ではむしろ人員不足と業務の分断を招き、働く側の自由度を高めたとは言い難い。企業はコストと人材確保に苦しみ、「足りない分は外国人で」という論理が浸透することとなった。

つまり、政府は制度的に日本人の労働力を抑え込み、その上で「人手不足」を口実に外国人労働者に頼る道を選んでいるのである。

この構図は、かつて自公政権が推し進めた「ゆとり教育」と酷似している。

1980年代末から本格化したゆとり教育は、「詰め込み教育からの脱却」を旗印に授業内容を大幅に削減し、競争を避け、個性を重視すると称して画一的な低水準化を進めた。だが結果はどうだったか。基礎学力が低下し、国際的な学力調査でも日本の順位は後退。企業は「新卒が使いものにならない」と嘆き、技術開発や創造力の分野でも人材不足が顕在化した。

日本の教育水準をわざわざ引き下げたことにより、日本全体の競争力が確実に落ちたのである。教育は国の根幹である。そこを壊してしまえば、国家の衰退は避けられない。

いま、同じことが労働政策で繰り返されている。日本人が本来持っている意欲や能力を制度で押さえ込み、働ける環境も整備せず、足りない分を外国人で補う――まさに“ゆとり労働政策”とも言うべき状況である。

そしてその根底には共通する思考がある。すなわち、**「日本人を育てない」**という思想だ。

外国人労働者の受け入れには文化的・社会的な摩擦も伴う。地域との軋轢、言語問題、教育現場への影響、賃金の低下圧力など、すでに多くの現場でひずみが生じている。それでも自公政権は、経済界や国際的評価を優先し、肝心の国民の声には耳を貸そうとしない。

グローバル化を言い訳に、国内の制度設計の不備を外国人頼みでごまかす。その姿勢は、もはや「国民軽視」と言うべきだろう。

だが、教育でも労働でも、社会を支えるのは「人」であり、「人をどう育てるか」で国家の未来は決まる。自民・公明の政策には、その最も重要な視点が欠落している。

日本人が学び、働き、育ち、未来を担える社会を取り戻すためには、まず制度の見直しと国民への信頼が必要だ。外国人導入は最後の選択肢であり、その前にやるべきことはいくらでもある。

「日本人を育てず、制度で抑え込み、足りないから外国に頼る」――この悪循環に終止符を打たなければ、日本の衰退はさらに加速する。今回の参議院議員選挙がその正念場だといえるだろう。