今年のお盆には、女房の母が泊まりに来た。九十三歳。足が弱く、ひとりでは歩けない。少し認知も進んでいるが、幸い外を徘徊することはない。それだけでも介護の負担は軽くなる。女房は「せめてお盆の間くらいは家で過ごさせたい」と言い、私は十四日の午後に車で迎えに行った。
わが家にはもう一人、いや一匹の高齢者もいる。犬の花子。十六歳になり、おむつをつけるようになった。かつては庭を駆け回っていたのに、いまでは白内障で目も見えず、耳も鼻も利かず、歩みもおぼつかない。ほとんど吠えることもなくなった。女房は「花子は犬のヘレン・ケラーみたいね」と笑うが、その冗談に少し胸が痛む。九十三歳の母と十六歳の犬――時間の流れは違えど、二人の姿が重なって見えてしまう。
女房には私の両親を看取ってもらった手前、今度はできるだけ協力しようと思っている。ただ義母と二人になると、会話が続かない。何か思い出を引き出せるかと、古い映画を探した。女房が子供の頃一緒に観に行ったという舟木一夫と和泉雅子の『絶唱』をユーチューブで見せることにした。
私も一緒に眺めたが、悲恋ものらしい筋立てはどこか作り物めいていて、正直あまり面白くなかった。極めつけは、亡くなった花嫁を横に座らせて結婚式を挙げる場面。思わず「ずいぶん変わった結婚式だ」と心の中で突っ込んでしまった。義母に「この映画によく小学生を連れて行きましたね」と話を向けてみたが、本人はすっかり忘れていた。記憶が消えていくというのは、こういうことなのだろう。
ふと先日見た「徹子の部屋」を思い出した。舟木一夫が『絶唱』撮影時の裏話を語っていた。死体役で花嫁衣裳のまま座っていた和泉雅子が、長い撮影の間に本当に眠ってしまったという。寝息まで立てていたのを見て、共演の初井言枝が「あなた、大物になるよ」と声をかけたそうだ。悲恋映画の裏にそんな可笑しみがあったと思うと、少し救われる気がした。
犬の命は、人の時間よりはるかに短い。九十年をかけて歩む道を、犬は十数年で駆け抜けてしまう。花子は最近、日がな一日眠っている。かつては窓辺に座り、外を眺めるのが好きだったのに、今ではそこに近づくこともない。外から帰るとまず体を揺すり、生きているかどうかを確かめるのが日課になった。
長く生きてきた人と、それなりに長く生きた犬が並んで座っている。その光景には、言葉にならない通じ合いがあるように思える。老いを重ねる姿が重なり合い、どこか静かに響き合っているのだ。そこに漂う空気は、哀しみと、そしてほんの少しのユーモアが入り混じっている。