無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7490日 不思議な集合写真

昭和三十三年四月、小学校に入学したときの集合写真が一枚残っている。20年程前に偶然その写真を再発見した時、ふと不思議なことに気が付いた。普通ならば集合写真というものは校長や担任が中央に座り、その周囲を児童が囲むように配置されるものだろう。ところがその写真では、向かって左の端に校長、右端に担任が座り、その間に子供たちが整列しているのである。その後現在に至るまでこうした配置の写真をほかで見たことがない。

これには何か意味があるのだろうか。或いは偶然そうなっただけかもしれない。しかし思えば、戦後教育が掲げた「子供中心」の理念を、あの一枚が具体的に表現していたのではないかとも考えられる。権威の象徴として中央に座るのではなく、子供たちの両端に寄り添うように校長と担任が位置する。子供たちが真ん中に立ち、教師はその左右から見守る。その構図には、この時の大野稔という校長の教育思想が宿っているようにも思える。

もちろん、当時一年生であった私が、校長という存在に特別な接点を持つことはなかった。校長室は遠い場所であり、直接言葉を交わした記憶もない。ただ一つ、なぜか鮮明に覚えている光景がある。開け放たれた校長室の中で、大野稔校長がリンゴの皮をむいていた姿だ。仕事の合間だったのか、静かな手つきで、赤い皮がくるくると長く連なっていた。幼い私はただその光景を横目で見ただけであるが、不思議と半世紀以上経った今でも心に残っている。

もし、あの写真の配置が偶然ではなく、大野校長の意図によるものだったとしたら――。校長はどのような人生を歩み、どのような教育観を持って子供たちに接していたのだろう。戦前戦中を生き抜き、敗戦を経て、教育の在り方が大きく変わる時代を体験した世代であるはずだ。権威や秩序を重んじるだけではなく、子供たちを中心に置こうとする信念を持っていたのかもしれない。

集合写真で子供を中央に据える構図。校長室を開け放ち、リンゴをむいていた親しみやすい姿。そこには、遠い存在でありながらもどこか温かく、子供たちを中心に置いて見守る教育者の気配があったようにも思われるが、今となっては、なぜそのような配置がなされたのか確かめるすべはない。ただ、一枚の写真が問いかけてくる、教育とは権威を持って知らしめるものなのか、それとも子供たちの両端に寄り添うものなのか。長い年月を経て、その問いは私の心に残り続けている。

あの写真に秘められた意味は、私にとっていまも謎である。しかし謎だからこそ、人生の晩年に差しかかった今、あらためてその奥に込められた信念や思いに耳を澄ませたくなるのである。