無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7482日 映画の見方

映画館へ出かけることはなくなったが、ネットでは昔の映画をよく見ている。普通なら映画は暗闇に沈む大きなスクリーンでこそ真価を発揮するものだと思っていたが、昭和二十年から三十年代初期の映画に限っては、その常識がどうやら当てはまらない。パソコンの画面で充分なのだ。むしろ小さな画面の中に静かに収まることで、かえって身近に感じられる。白黒の画面だって気にならない。いや、むしろ光と影のコントラストが、現代映画よりもずっと美しく思えることさえある。

最近の映画を見ていると、どうしても「怒鳴る、走る、早口でまくし立てる、セックスや暴力に頼る」といった要素が目につく。もちろん、それは観客の気持ちを一瞬でつかむための工夫なのだろうが、どうにも落ち着かない。ところが昭和の映画は違う。そこには淡々とした時間の流れがあり、表情のわずかな変化や、ちょっとした仕草、そして粋な会話が、物語を支えている。安心して眺めていられるのだ。俳優たちの演技には揺るぎない安定感があり、それを見ているだけで、こちらの心も落ち着いてくる。

若い頃には、こうした映画を退屈だと感じた。小津安二郎の『東京物語』も、長い沈黙やゆったりとした場面展開に、正直「眠たい」と思った記憶がある。ところが今になって観返してみると、不思議なほどに心に響く。親と子の距離感や、老いの現実。かつては遠いと思っていた問題が、年を重ねた自分の実感と重なってくる。映画は、ただその内容だけで評価できるものではなく、鑑賞する側の人生経験によって、意味合いが大きく変わるものなのだろう。

思えば、映画そのものも時代によって姿を変えてきた。戦後まもない頃には、ただ淡々と日常を描くことが、人々に安らぎと共感を与えた。やがて高度成長期に入り、スピードや娯楽性が求められるようになると、映画はだんだんと派手さを増していった。そして今や、動画配信の時代。数秒で観客の心をつかまなければ視聴をやめられてしまう。怒鳴り声やアクションが氾濫するのも当然といえば当然だ。俳優の演技のあり方も同じで、じっくり時間をかけて練られた昔の演技と、瞬発力を求められる今の演技とでは、土台から違っている。

結局のところ、映画は「時代の姿」を映すものであると同時に、「見る人の人生」をも映すものなのだと思う。若い頃には退屈に見えた作品が、年を重ねてようやく胸に沁みてくる。そんな体験を重ねることで、映画は単なる娯楽を超え、自分の人生と響き合う存在になる。昭和の映画を小さな画面で見ながら感じる安らぎも、現代映画を大スクリーンで浴びる迫力も、どちらも映画の持つ豊かさのかたちなのだ。