母方の伯父が戦死したのは、昭和十九年、ニューギニア・サルミ付近だったという。子どもの頃に聞かされていたのは「南の島で死んだ」という曖昧な言葉だけだった。お盆になると、伯母が一人で送り火を焚いていた姿を、いまでもはっきり覚えている。
2017年に亡くなったいとこの「じゅうちゃん」の弟、「しょうちゃん」は父親の出征を見送った日の微かな記憶を語ったことがある。三歳の幼い目に残ったのは、松山駅のホームと、帰りに連れて行ってもらったサーカスか動物園のような光景だったという。その断片だけが、出征の日の家族の時間をかろうじて照らしている。
伯父が戦死したのがニューギニアだと知ったのは、母が亡くなる十数年前だった。そこから手探りの資料探しが始まり、過酷な戦場を生き延びた元兵士が書いた二冊の手記に行き当たった。南洋第六支隊という、ほとんど語られてこなかった部隊の存在を初めて知ったのもその頃である。
手記には、支隊が上層部の都合で将棋の駒のように動かされていく姿が描かれていた。命令は電報一本で下る。兵器も補給もなく、将校と下士官ばかりが残されたいびつな部隊が、心細さを抱えたまま密林へ送られていく。その中に伯父もいたのだと思うとページをめくる指が自然と止まった。
そんなある夜、歴史ブログを読んでいて、ふと「今はネットの時代だ。南洋第6支隊に関する資料もどこかに眠っているのではないか」と気づいた。調べるうちに国立公文書館アジア歴史資料センターに行き当たり、ついにパラオにいた南洋第六支隊をニューギニアへ派遣することを命じた一通の電報を見つけた。昭和十九年一月十九日付の命令書。伯父の運命を決めた紙片が、静かに画面に現れた瞬間だった。
30年ほど前、伯父の三人の息子たちが慰霊のために現地を訪れたことがあった。帰国後の報告会で上映されたビデオ映像で、三人が草原の墓標の前で佇んでいた姿を思い出す。まだ元気だった伯母や母のほっとした笑顔は今でも胸に残っている。戦史の隙間に埋もれていた伯父の命が、ようやく一人の人間として浮かび上がってきた気がした。