九十四歳まで生きるとしても、残された年月は二十年にすぎない。それを長いと感じるか短いと感じるかは、状況や心の向きによって大きく変わる。良い出来事があれば未来は明るく開けて見え、気力が落ちた日は、同じ時間が重荷のように感じられる。つまり、人の感覚や判断は固定したものではなく、絶えず揺れ動く。その揺らぎこそが、人間の本性に近いのだと思う。
喜び、怒り、不安、欲望──それらは性格の偏りではなく、一人の人間に備わるさまざまな側面にすぎない。人は、驚くほど多面的な存在である。穏やかな自分と苛立つ自分は矛盾せず、むしろ共にあるからこそ一人の人間が成立している。個人とは何か一つの性質に収束するものではなく、複数の傾向や感情の束として立ち現れる存在だ。
その多面性を無理に一つにまとめようとすると、かえって苦しみが生まれる。あるべき姿に自らを押し込めるほど、“本来の自分”から遠ざかってしまう。逆に、怒っている自分、脆さに揺れる自分、誰かに優しくできる自分、成功に舞い上がる自分──そのすべてが、自分を構成する正当な一部であると認められたとき、人はようやく自分自身と折り合いをつけて生きられるのだろう。
また、他人に対して「常に一定の態度であれ」と求めることも、相手の多面性を奪うことになる。人間を単純化して理解しようとするのは、世界を単純化して安心したいこちらの都合にすぎない。表に現れる性質は、その人の全体のごく一部分にすぎない。人はつねに変化し続け、つねに未完成である。
では、人は生まれながらにして完全だ、という言葉はどう理解できるだろうか。ここでいう「完全」とは、欠点がないという意味ではない。むしろ、最初から多くの可能性を含んだ存在として開かれている、という意味に近い。人は生まれた瞬間から、矛盾や葛藤、喜びや弱さを同時に抱えうるようにできている。その複雑さを丸ごと認めるとき、そこに“完全”がある。
自分のなかのすべての面を受け入れることができれば、人生の長さや生き方の正解を過剰に求める必要もなくなる。もちろん、それは容易なことではない。誰しも、理想と現実のあいだで揺れ動きながら生きている。ただ、その揺れこそが人間であり、その揺れを抱えた自分を「これでいい」と静かに認めるとき、人生は少し軽くなるのではないだろうか。