無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7395日 NHK---電波の押し売り

最近NHKの存在意義について様々な意見がでているが、元々NHKの制度的前提が「電波の希少性」にあったことは間違いない。放送法が制定された当時、電波は限られた公共資源であり、国家が管理し、営利や政治から距離を置いた公共放送が全国津々浦々に同質の情報を届けることには、明確な合理性があった。受信可能である以上、対価を負担するという考え方も、インフラ維持のための“準税”的性格として社会に受け入れられていた。

しかしこの前提は、すでに崩れている。インターネット、配信サービス、オンデマンド視聴が常態化した現在、「見たいものに金を払う」「見ないものは選ばない」という市場原理は、放送においても例外ではない。電波の希少性は相対化され、情報取得の手段は多様化した。この状況で、受信設備の存在のみを理由に一律負担を強いる制度は、国民の実感とかけ離れているといえるだろう。

次に、憲法との関係だが、問題となるのは主に二点、すなわち「財産権(憲法29条)」と「契約の自由(13条・22条)」だ。NHK受信料は税ではないとされながら、実質的には視聴の意思と無関係に負担が生じ、拒否の自由も限定されている。この点について最高裁は合憲判断を下しているが、それはあくまで「現行放送制度の合理性」を前提とした判断であり、時代環境の変化を永続的に保証するものではないはずだ。制度の合理性が失われた時、同じ論理が通用し続けるとは限らない。

さらに、公共放送を名乗る以上、最大の資本は「信頼」であるはずだ。ところが、国際放送における領土表現の問題、外国の影響をうけたかのような番組編成における価値観の偏り、巨額の予算と新社屋建設などは、「公共」の名のもとに国民の負託を受けている組織としての自己抑制を欠いているように感じられる。紅白歌合戦が象徴するように、かつて海外で正月を迎える日本人にとっての精神的な支えでもあった番組が、今や「誰のためのものか分からない」存在になってしまったことも、NHKが国民的合意を失った一因だろう。

詰まるところ、NHKを立て直す道は二つしかないと思われる。一つは、スクランブル化を含む抜本的な制度転換によって「選ばれる公共放送」になること。もう一つは、公共放送としての役割を大幅に縮小し、歴史的使命を終えた存在として再編されることだ。国民から「電波の押し売り」と受け取られている限り、公共放送の名は空洞化し、現行制度を維持したまま、信頼だけを回復することは不可能だろう。