無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7365日 ブログと人生の意義

元旦午前零時から新年の祝詞をあげ、令和8年が始まった。64歳で仕事を辞めてから10年目になる。そして今年の5月3日がくれば、「あと10918日」と数え始めたこのブログも、ちょうど10年になる。つまらないことを書きなぐってきただけだが、続けてきたという事実だけは残った。

書き始めた当初は、とにかく毎日書くことを自分に課していた。思いついたことはすぐにメモしなければ、あっという間に消えてしまう。2年ほどはそれを守れたが、常に書くことを意識する生活は、思った以上に精神を消耗させた。その後、町内会や公民館の役員、民生委員など地域の役を引き受け、忙しくなったことをきっかけに、毎日更新はやめた。ただ今になって思えば、それは忙しさを理由にした後退だったのかもしれない。

私は人のブログを読む側でもある。情報を整理し、人の役に立つ文章を書ける人がいる。それはひとつの才能であり、同時に継続の力でもある。書くことそのものよりも、続けることのほうがはるかに難しい。

水面を滑るように進む白鳥は、見えないところで足を動かし続けている。外からは優雅に見えるものほど、内側では努力が続いている。簡単に見えること、誰にでもできそうに見えることほど、実際には続けがたく、やり遂げがたい。

人生も同じである。生まれてから死ぬまで、人はそれぞれに与えられた時間を生き切らなければならない。途中で休むことはできても、代わってもらうことはできない。外から見える姿と、内側で費やしている労力は必ずしも一致しないが、その差を引き受けて生きるほかに方法はない。

妥協とは、何かを諦めることではなく、世界の見え方を更新することではないだろうか。順調に進んでいるように見える日々も、停滞していると感じる時間も、等しく人生の一部であると認めること。そのとき初めて、人は自分の歩みを過不足なく受け取り、静かに前へ進むことができる。