これは単なる個人的な感想にすぎないのだが、映像の世界でも現実の生活の中でも、はっとするほど美しいと感じる女性を見かけなくなったような気がしている。もちろん美の基準は人それぞれであり、お前の好みで勝手なことを言うなと叱られれば、そのとおりだとしか言いようがない。ただ、個性的だとか、かわいいといった評価は分かれても、「美しい」という感覚には、案外時代や文化を超えた普遍性があるのではないかと思っている
昭和50年から60年までの約10年間、東京で暮らしたことがある。その間、心に残るほど美しいと感じた女性には4人しか出会ったことがない。明治神宮の参道で、西武池袋線の石神井公園駅で、山手線の目黒駅で、そして防衛医大に入院していたときに病院で見かけた女性である。いずれも名前も素性も知らない。ただ、40年以上経った今でも、その場の空気や光とともにはっきりと記憶に残っている。あれ以降、日常生活の中で、それに並ぶ体験は一度もない。
映画の世界でも同じことを感じる。オードリー・ヘップバーン、グレース・ケリー、シルヴァーナ・マンガーノ、ジーナ・ロロブリジーダ、イングリッド・バーグマン。スクリーンや雑誌の中で見た彼女たちは、現実から切り離された別世界の存在であり、そこには文句のつけようのない普遍的な美があった。最近の映画をほとんど見ていないので断定はできないが、少なくとも私の知る範囲では、同じ種類の美を感じさせる女優を思い浮かべることはできない。
これは俳優の質が落ちたという単純な話ではないだろう。こちらの感受性が衰えたという説明にも、どこか無理がある。むしろ社会全体が、「美しい」という言葉を使うことに過剰に神経質になり、その感覚そのものを遠ざけてしまった結果ではないかと思うようになった。
美は本来、他者と比較して優劣を決めるための概念ではない。理屈を超えて、見る者が一瞬立ち止まるような体験であり、憧れや感動の源である。それにもかかわらず、誰でも美しいものに憧れるという当たり前の感情を前にして、美を称賛すること自体が「誰かを傷つける」「多様性に反する」と叩かれる場面が目につくようになった。
個性的、かわいい、多様である――そうした言葉は安全で無難な表現として多用される一方で、「美しい」という言葉だけが腫れ物のように扱われる。すべてを横並びにし、差異を語ることを避けることで、社会は公平になったつもりでいるのかもしれない。しかし、人の内側にある美への憧れや感動まで消せるわけではない。語ることを禁じられた感覚は、やがて鈍り、言葉も感性も痩せていく。
映画から普遍的な美が消えたように感じるのも、作り手が美を提示することに臆病になった結果ではないか。美を描くことが即座に排除や差別と結びつけられるなら、誰も正面からそれを扱おうとはしなくなる。
美しいものを美しいと言う自由。それは本来、誰かを貶めることとは無関係である。ポリティカル・コレクトネスが行き過ぎ、美を語る言葉を失った社会は、感動する力そのものを静かに失いつつある。そのことへの違和感が、私の中で消えずに残っている。