2月6日、9人目の孫が生まれた。これで男8人、女1人である。家の中に並ぶ靴の数を想像するだけで、にぎやかな音が聞こえてくるようだ。
80年前、父母が結婚して新しい戸籍をつくった。そこに私と兄が加わり、4人家族となった。兄夫婦には子どもができなかった。若いころ、ふと考えたことがある。もし自分が結婚しなかったら、あるいは結婚しても子どもができなかったら、この戸籍は自分の代で途絶えてしまうのではないか、と。
皇族でもあるまいし、家が絶えたところで世の中に何の影響もない。それは理屈ではわかっている。それでも、どこか寂しい気がした。父母がつくった1枚の戸籍が、静かに閉じられてしまうような気がしたのだ。
幸い、続けざまに3人の子どもに恵まれ、その憂いは消えた。だが現実は甘くない。金銭的に余裕があったわけではない。今のように手厚い支援もなく、3人を育てるだけで精一杯だった。あと2人ぐらい、と夢想したことはあるが、生活の帳尻を合わせる日々のなかでは、それは空想に過ぎなかった。
子どもが社会に出て税金を払うまで、親は長い時間と多額の金を注ぎ込む。教育費、食費、住居費。気がつけば自分の脛は細っている。人口減少が叫ばれる今、少しは何とかならないのかと思うのは自然なことだろう。
たとえば三人目から成人まで毎年500万円出す、と言われたらどうだろう。私はたぶん、あと二人は産んでいた。金の問題ではない、と言う人もいる。しかし、それは余裕のある人の言葉ではないか。少なくとも多くの家庭にとって、子どもの数は家計と無縁ではない。きれいごとでは済まない。
3人以上産めば専業でやっていけるだけの支えがある、という社会ならば、決断する夫婦は確実に増えるはずだ。これは理屈ではなく、実感である。
子どもは小さいうちは確かにしんどい。眠れぬ夜もあれば、思い通りにならぬ日もある。だが成長していくにつれ、人数が多いほど喜びは増えていく。孫が9人もいるというのは、老後のぜいたくである。誕生日のたびに、正月のたびに、家の中に命の重なりが見える。
戸籍が続くこと自体に大きな意味があるわけではない。それでも、血のつながりが枝分かれし、次の世代へと渡っていく様子を見るのは、どこか安心に似た感情を呼び起こす。自分一人の人生が、細い糸のように未来へ伸びていると思えるからだ。
少子化を止める方法は簡単ではない。価値観も生き方も多様になった。しかし、少なくとも経済的な不安で諦めさせる社会であってはならないだろう。
9人目の孫を抱きながら、そんなことを思った。命は尊い、などと大仰なことを言うつもりはない。ただ、にぎやかな食卓の風景を、もう少し多くの人が持てる国であってほしいと、静かに願っている。