最近、ニュースで カーグ島 の名を目にすることが増えた。そのたびに、50年以上も前の、ひどく遠い記憶がふいに浮かんでくる。
昭和49年のことである。当時乗っていた 9万トンのタンカー「R.B. Johnson」 で、ニューヨークとカーグ島のあいだを往復した。ちょうど中東戦争のあとで、スエズ運河 が使えず、船は 喜望峰 を回った。片道40日という航海である。いま思えば、ずいぶんと気の長い話だ。


それだけの時間をかけて行った先のことなのに、記憶に残っているのは、驚くほど乏しい。暑かったことと、何もなかったこと、その二つくらいである。
機関室は40度を軽く超えていた。頭から水をかぶってダクトの前に立つと、しばらくもせぬうちに体は乾いた。あの乾き方だけは、妙に生々しく思い出される。
カーグ島では、急に肩が動かなくなり、代理店の車で病院に連れて行ってもらった。通された部屋は、診察室というよりも、広い書斎のようであった。大きな机の向こうに、ひげをたくわえた男が、いかにも仕立てのよい服を着て座っている。医者というより、どこかの支配人のような落ち着きである。
肩を少し動かしながら、ひととおり見ただけで大丈夫だと言う。日本なら何かしら検査をするところだろうが、ここではそれもない。最後に、痛かったら医者にこれを打ってもらえと言って、赤い液体の入ったアンプルを渡された。おそらく鎮痛剤だろう。
船には医者がいないと説明するのも面倒で、そのまま受け取って帰って捨てた。代理店が治療費をいくら払ったのかは知らない。ただ、安くはなかっただろうという気はしている。
沖のシーバースから延々と陸地に向かって続く木の橋(当時は木の橋だった)を、がたがた揺られながら車でしばらく走った先にシーメンズクラブがあった。なぜか卓球台が置いてあったので二人で少し遊んだ。当然アルコール類は置いてないのでコーラを飲んで船に戻った。
カーグ島での記憶といえば、それだけである。
40日の航海の果てにあったものが、この程度の出来事でしかないというのも、妙な話だが、当時はそれで何の不思議もなかった。いまのように時間を埋めるものが何もなかったからだろう。パソコンもなければ、もちろんネットもない。ただ海があり、時間があり、それが延々と続いていた。
思い返してみると、あの頃の「遠さ」というのは、単なる距離ではなかったように思う。時間そのものが、もっと重く、厚みを持っていた。40日という航海が、今とはまるで違う長さを持っていたのである。
だからこそ、たったこれだけの記憶でも、こうして半世紀を過ぎてなお、消えずに残っているのかもしれない。