民生委員として担当している独居高齢者の家を訪ねた折、スマートフォンの話題になった。従来の機種が使えなくなり、通信会社の案内に従ってスマートフォンに切り替えたものの、何をどうすればよいのか分からないという。それでも本人は無料セミナーに積極的に通っているのだが、理解は追いつかないらしい。その姿に、時代の変化の速さと、それに伴う戸惑いの深さを感じた。
かつてはガラケーで有料のメッセージを使っていたというので、無料でやり取りできる手段として+メッセージをインストールし、使い方を説明した。ひとつひとつ確認しながら進めると、それだけで30分ほどかかった。画面を見ながら一緒に操作を繰り返す中で、こちらもまた「当たり前」と思っていた操作が、決して自明ではないことに気づかされる。現場で対応する通信会社の担当者の苦労にも思いが及んだ。
さらに、周囲の人々が使っているLINEを使えるようにしてほしいと頼まれた。無料セミナーでありながらLINEに関しては有料とのことで、まだ受講していないという。多くの人が日常的に利用している手段が、学ぶためには別途費用を要するというのも、どこかちぐはぐな印象を受ける。その場で教えることもできたが、さらに30分ほどはかかると見込み、その日は見送ることにした。
スマートフォンがなければ生活が成り立たない社会になりつつある。しかし、その入口でつまずく人が少なからず存在している現実を、目の当たりにした思いである。便利であるはずの道具が、使えない人にとってはむしろ障壁となり、社会から取り残される不安を生む。これは単なる個人の問題ではなく、社会全体の設計の問題ではないだろうか。
技術は進歩し続けるが、それが真に社会の基盤となるためには、誰もが迷わず使えるものでなければならない。ラジオやテレビ、洗濯機のように、説明書を読まずとも自然に使える形に近づけていく工夫が求められる。同時に、人が人を支える仕組みも欠かせない。対面で教える時間や、繰り返し学べる機会を社会として保障していくことが必要だろう。
便利さの陰で取り残される人を生まないこと。その視点を失わない限りにおいてのみ、技術の進歩は意味を持つのだと思う。