無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10579日

 長男が小学2年のときに、図書館で借りて来た、遠山式算数という本を読んでやった事があった。詳しい内容は忘れたが、方程式を教えるのに中身が見える瓶詰め、中身が見えない缶詰などと言う例えを用いて説明していた。算数もろくに習ってない2年生には無理だろうと思ったが、長男に読んでやると、嫌がらずに黙って聞いていた。きちんと理解したわけではないだろうが、ちょっと驚いたのを覚えている。

 小学校の5年生の時に、ヒッポファミリークラブという所が出版していた「フーリエの冒険」という本を読んでやった事があった。フーリエ級数を、三角関数を知らない子供にでも理解できるように、わかりやすく説明してあった。これは実にわかりやすかった。じつはわしも昔半年ほど、専門数学の授業でフーリエ級数ラプラス変換を習ったが、消化不良のまま時間切れになった経験があった。この「フーリエの冒険」を読んでから勉強を始めたらもっと捗っただろう。

 この時も長男は嫌がらずに最後まで話を聞いていたが、さすがに難しかったようだ。あとから読んだんだが、学校に提出したもののなかに、この日のことを書いていた。「父さんにフーリエというのを教えてもらった。よくわからなかったけど、面白かった。」すると先生がそれに答えて「ちょっと難しかったかな。お父さんに教えてもらえてよかったね。」と書かれてあった。

 長男が小さかったときの思い出はいろいろあるが、わしの中ではこの二つの出来事が一番心に残っている。知らない事を素直に聞いて、わかろうとする姿勢は、わしには無かったな。この間長男にこの話をしたんだが、忘れているかと思っていたら、最初の遠山式の瓶詰め缶詰も、フーリエもよく覚えていた。まあそんな話をしたなあという程度だが、覚えていてくれたことはうれしかった。

 本棚にあった「フーリエの冒険」をみて、今ならわかるかなと言っていたから、今度は自分の子供が小学生になったら読んでやることを勧めておいた。長男に似たら黙って聞くだろうし、わしに似たらそんな本蹴飛ばしているだろう。

あと10580日

 朝鮮半島がきな臭くなっているようだが、備えろといわれても一体何をしたらいいのいか、皆目見当がつかない。水くらいは備えといた方が良いのか、備えるとしたらどのくらいの量を用意したら良いのか。核弾頭が飛んで来たとき、数分の時間しかないだろうが、どこに避難すればいいのか、そもそも核シェルター自体がないだろう。そんなことを考えてもいけないし、想定して訓練する事も許されなかったからな。座して死を待つしか無いのか。わしらみたいなじじいはそれでもいいが、若い連中はそうはいかんだろう。

 今でも韓国に10万人以上の日本人がいるそうだ。戦争が起きたときこの人達は自己責任になるんだろうが、どうするつもりなんだろうか。自民党も今頃になって策源地攻撃能力を持つとか持たないとかいっているが、ここ2ヶ月以内に起きれば、もう間に合わないだろう。それで日本国民を守れるんだろうか。国内が騒乱状態になった時、少数の予備自衛官しかいない自衛隊が押さえられるのか。大東亜戦争終結から70年、憲法改正を党是にした自民党に国民は多くの票を与えて来たにもかかわらず、自民党はそれをしなかった。

 国民の生命安全を守るのは国家の仕事で、国民との約束でもある。約束を果たすためには、憲法改正するしか方法が無いならやるしかないだろう。独裁と言われようと、きちんと説明すれば多くの国民は納得すると思うが、ミサイルの一発位飛んで来なければなかなか目が覚めないのかもしれんな。その一発が核ならそれでおしまいだ。インドの国防大臣の部屋には、広島の写真が掲げられているということを読んだ事がある。何も反核平和運動のためではない、インドは絶対に核攻撃は受けないという決意を示しているものだそうだ。本来なら日本こそ防衛大臣の部屋にそれを掲げ、日本は3度目の核攻撃は絶対に受けないと宣言をするべきだろう。

 とまあ、わしはこのように考えるんだが、もちろん何事も起こらないのが一番。しかし、今度ばかりは何かあるんじゃないかと思っている。とにかく、今出来る準備として、株は全部処分しといた。

あと10581日

 今日が最後の認定日ということで、朝8時半に家を出てハローワークに向かった。ハローワーク通いが始まったのは、去年の7月からで、3ヶ月の待機期間の後、11月から失業保険の給付が始まった。仕事を探している訳でもないので、月2回の職業相談も何の意味も無いとはいえ、いかなくては貰えない。最初の頃はなんともなかったが、これがだんだんと苦痛になってくる。去年の8月10日の説明会の頃は、月に2日出てくるだけで失業保険が貰えるということで、楽勝感が漂っていた。どうせ時間はあるんだから、歩いても15分で、散歩に丁度いいだろうと軽く考えていた。

 しかし実際に始めて見ると、これがなかなか大変だという事がわかってきた。まず認定日には必ず行かなければならないということだが、月一回だから何の問題もないだろうと考えていた。現に8月の説明会で、認定日を忘れて、来ない人が少なからずいるので、注意してくださいという話を聞いた時も、そんな大事な日をわすれることなんかないだろうと笑って聞いていたのを覚えている。しかし、わしは1月の旅行日程を決めるとき、認定日のことをすっかり忘れて、1ヶ月無駄にしてしまった。

 もう一つは気持ちの問題だ。65歳でハローワークに行く人はそんなにいないだろうから、ほぼ最年長と言えるんじゃないかな。そんな人間が仕事を探す気もないのに、ハローワークに行って、形だけパソコン画面を見て、職業相談をして、判をついてもらうという、一連の行動を何ヶ月も続けるいうことは、言ってみれば本当の求職者や、ハローワークで働いている若い人達の邪魔をしているんじゃないかと思うようになった。雇用保険にはいっていたんだから、貰うのは当然の権利だといえば、そのとおりなんだが、だんだんと引け目を感じるようになっていった。

 そんなことを言っても、生活があるのでハローワーク通いを途中でやめるわけにもいかない。今日計算してみたら総額で約54万5千円になっていたから、かなりな額だ。いろいろ考えながらも、今日の最終の認定日を無事終えてほっとしている。おそらく二度とハローワークのお世話になることはないだろう。良い経験をさせてもらったのかな。

あと10582日

 古事記神代巻を100回読破を目指して読み始めて13ヶ月目になるが、昨日でやっと49回目が終わり、今50回目を読んでいる。去年の11月までに100回を目標にしていたが、そんなに簡単に読めるものではなかった。わしの使っている『朗読のための古訓古事記』は、ルビが振ってあるので、日本語が理解できれば誰でも読める事は読める。別に難しいことではない。それでもなかなか読めないというのは、こちら側の問題で、中身がとくに面白い訳でもないし、何回も読むと、あらすじはすべて覚えてしまったということもある。しかし、そもそもストーリー的にはわしら凡人の理解を超えているので、小説を読むような感覚では長続きしないだろう。

 それでもわしが古事記神代巻を読み続けるということの意味は、前にも書いたが、相曾誠治氏の本で、「正しい言霊の教材はありますでしょうか?」という質問にたいする以下の回答を読んだからだ。

「陰陽の禊を重ねてまいりますとだんだん浄化して行き鎮魂状態にはいりやすくなります。この境地になってから『古事記』神代巻を唱えますと言霊の振動や響きによって、自然にこうこう状態に入っていきます。」

「神の世界に参入するためには正しい言葉(ヤマト言葉)を自分で響かせます。それには正しい言霊で書かれた『古事記』神代巻が必要なのですが、正しい言霊の書籍はほとんど出版されておりません。」

「老婆心ながら言霊の禊をされたい方のために比較的正しい言霊で書かれた『古事記』を紹介しておきましょう。」

「日本語は世界中の言葉の中でも五つの母音が非常にはっきりしている言語です。アイウエオの五母音をしっかり明瞭に発音することが一番の教材です。それには古い言語で書かれた『古事記』神代巻を声に出して何回も読む事です。」

 去年の4月以降、どんなに時間がなくても必ず一回は音読するようにしているが、わからない。何かを得ようなどと小賢しい考えで読んでいても、結局何も得られないのかもしれない。むずかしいところだ。

あと10583日

 2日前に注文したFireTVが昼頃届いた。クロネコの自転車宅配が来たのも初めてだったし、人も初めてだった。40代くらいの女性だったから、最近募集している、自分の家の近所だけ配達する、主婦の短時間パートかもしれんな。狭い範囲で小さい荷物の宅配なら、自転車で運ぶ方が効率的だろうな。

 うちはhuluを契約していて、女房がときどき見ているんだが、1階のテレビは10年前の、当時一世を風靡したメイドイン亀山なので、直接インターネットに繋ぐことはできない。しかたがないので、huluを見るためにだけ、プレステ2を購入した。しかし、2階のテレビは子供等が来た時に見るだけなので、ネット接続はいらないだろうと、そのままにしておいた。ところが、最近孫達も大きくなって、huluでアンパンマンが見たいとか、おさるのジョージが見たいとかいうようになってきた。

 長男の家ではアマゾンFireTVを使っているらしいので、2階のテレビでもhuluが見えるように、うちでもそれを買うかと話していた矢先、2日前にアマゾンのタイムサービスで3980円で売っているのを知って、大急ぎで注文したものだった。早速セットしていろいろ試していると、24hoursの知らないシリーズをやっているのに気が付いて、ついつい1本だけ見てしまった。これはテンポが速くてストーリーも面白い。なんで日本ではこんなドラマができないのかね。荒唐無稽ではあるが、不死身のジャックバウアーだから安心して見ていられる。

 うちは今のテレビを買うまで5〜6年の間、テレビが故障して見えない時期があった。子供等も見たいとは言わなかったので、修理しなかったが、別に不自由は感じなかった。まあ子供等はゲームに熱中していたということもあるんだろう。長男が進学で家を出てから、退屈になったのか、二男がテレビがほしいというので、購入したものだ。テレビなんてものは、見もしないのに、一日中つけているからいけないので、たいしたコンテンツもないし、無ければないですぐに慣れてしまう。森友の件をみても、テレビで幾ら煽っても、すでに国民は踊らなくなっている。今の若者はテレビ離れ、新聞離れが進んでいるらしいので、団塊以上の世代が消えて行けば日本もまともな方向に向かうだろう。

 

あと10584日

 4月にはいって協会けんぽの保険証が使えなくなってしまった。今年度分を払ってないから当然なんだが、こんな時に限って女房が熱をだした。病院窓口で一旦全額を払っておいて、あとから申請すれば返ってはくるが、面倒くさいので、よっぽど重症でなければ、病院へは行かないだろうな。わしの場合、年払い契約にしていたので、その期限は3月31日で切れている。この後もう一度、今度は月払いに変更になり、4月分の振り込み用紙を送ってくるはずだ。それを期限の10日までほおっておくと、晴れて資格喪失者となれるわけだ。送られて来る資格喪失証明書をもって、市役所で国保の手続きをやれば完了だが、とにかく、任意継続を途中でやめるのは面倒なことだ。

 女房の熱の原因は扁桃腺の腫れで、ほっておけば治るとは思うが、明日から仕事に行かなくてはならないので、そういうわけにもいかない。近所のレディ薬局に行って、薬の販売員に扁桃腺の腫れに効く薬はないか聞いてみた。販売員は棚の前に行って、3種類の薬を持ってきた。そして、トラネキサム酸を含有する内服薬といっしょに飲んではいけないとか、注意事項を読んだ後で、朝からこのような内服薬を飲んでませんかと聞かれた。そんなこと急に聞かれても、朝PLを飲んだことは知っているが、他に何を飲んだかは知らない。考えてもしょうがないので、一番高かった小林製薬の「ハレナース」というのを購入した。最後に、「この薬は効きますか?」と聞いてみたら「薬ですから」という答えだった。わしもその答えに妙に納得して、話はそこまでにしておいた。

 レディー薬局は去年から、買い物だけでなく、調剤でも楽天ポイントがたまるようになったので、よく利用するようになった。それ以前からEdyは使えたが、レジの人が不慣れで、一度Edyと現金の併用をしようとしたとき、併用はできないと逆切れされたことがあった。Edyを使う人自体が少ないので知らなかったんだろうが、これにはわしも驚いた。念のため、翌日レディ薬局にメールで問い合わせると、できるということだった。世の中いろんな人がいるから、気をつけないとな。

あと10585日

 いよいよ今日から無職2年目にはいった。人生の第4コーナを回ったあたりだろうと、勝手に考えているが、寿命だけはわからない。この一年、これをやったとか、あれをやったとか、そういう達成感は何もない。ただ淡々と一日一日を積み上げて来ただけだ。これからもこんな生活が続いて行くんだろう。役に立つ事は何もないが、せめて邪魔をしないという、この消極的な生き方が許されるという事が、今のわしにとっては最高の幸せだともいえる。

 毎朝の掃除雑巾がけ、太陽参拝、祝詞奏上、古事記神代巻朗読(今49回目)、7000歩の歩行、これだけはほぼ毎日欠かさずにやっている。歩行に関しては2000〜5000歩くらいに減らしているが、階段の上り下りを追加している。これらの繰り返しが生活のリズムになっているといえばいえるかもしれない。人と会って話すということがほとんどないので、言ってみれば究極の自己満足の世界といえるかもしれない。

 達成感というのはいたって個人的なもので、同じ事をしても、感じる人もいれば感じない人もいる。達成感とは関係なく物事はあるようにある。わしの達成感如きに影響される何ものも、この世の中に存在しない。やりがいとか、達成感とかいうものの持つ高揚感は、それが醒めたあとで振り返ってみると、マッチの燃えかすのようなものだ。振り返ってみると、その燃えかすが延々と続いているのが見える様な気がする。

 しかし、わしは今の生活に決して満足しているわけではない。掃除するのもしんどい事もあるし、祝詞を奏上しても身が入らない事もある。以前やったように、時々家族で麻雀をするのもいいかなと考えたり、幸せだと感ずる一方で、ただ淡々と暮らしてゆくことを重荷に感ずることもある。死んだ時にすべては繫がって完結するんだろうが、その場その場では錯綜した心の葛藤が渦巻いている。こんなことを語り合える同好の士がいれば一晩でも二晩でも語り合えるんだが、これは無理な相談だ。

 昨日も明日も無い、その日あったことをすべて認め、そして淡々と今日を生きるしかないんだろうな。