無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7151日 経験と歴史の狭間

先日、YouTubeで1996年11月放送の「朝まで生テレビ 元帝国軍人50人の戦争と平和」を見ていて、戦争の「証言」とは何なのか、あらためて考えさせられた。終戦から51年。当時20代、30代で戦争を経験した人たちが、まだ大勢健在だった。今から考えれば、これほど貴重な証言者が一堂に集まる機会は、もう二度となかっただろう。

ところが、番組を見ていて気になったのは、本人が実際に経験したことと、戦後になって身につけた戦争についての知識との境目が、ほとんど分からなくなっていることである。元一等兵や伍長が戦争全体の戦略を語り、水兵だった人が自分の経験したわけではない海軍の事件について詳しく話す。もちろん戦後に研究したことを語るのは自由である。しかし、それを「戦争経験者の証言」として聞くのには少し違和感がある。

ここには、証言というものが持つ、意外な落とし穴があるのではないか。

戦争を経験した人は、自分の体験を後世に伝えようとする。そのためには、自分が何を経験したのかを思い出さなければならない。しかし、人間の記憶はその後の人生から独立して存在しているわけではない。戦後、新聞を読み、本を読み、テレビを見、他人の話を聞く。やがて戦争についての知識が増えてくると、その知識によって自分の経験をもう一度理解し直すようになる。

最初は「自分の部隊ではこうだった」という小さな記憶だったものが、後から知った戦史と結びつき、「あれは戦争全体の中ではこういう意味だったのだ」と解釈されるようになる。つまり、経験を正確に伝えようと努力することが、逆にその経験を歴史によって肉付けしてしまうのである。しかも本人には、その変化に気づきにくい。

50年前の記憶を語っているつもりでも、その記憶の中には、50年間に読んだ本や聞いた話が入り込んでいる。「自分が見たこと」と「後から知ったこと」が、本人の中で一つになってしまうのだ。だから、戦争経験者が戦争について詳しく語るほど、それが純粋な「体験談」なのか、後から歴史によって意味づけされた「記憶」なのか分からなくなる。

これは、故意の改ざんとは全く違う。本人は嘘をついているつもりなどない。むしろ、自分の経験を正しく伝えたいと思っているからこそ、後から得た知識を使って記憶を整理してしまうのである。そしてテレビは、そこにさらに手を加える。

一人の元兵士が「自分の部隊ではこうだった」と話すより、「あの戦争は何だったのか」と語るほうが番組としては面白い。こうして個人の小さな経験が、大きな歴史の物語の中に組み込まれていく。しかし、本当に後世に残すべきなのは、案外そうした「小さな記憶」なのではないだろうか。

どこで何を食べたのか。誰と一緒だったのか。何が怖かったのか。上官はどんな人物だったのか。終戦の日に何を見たのか。そこには、後から歴史を勉強しなければ語れないような立派な意味など必要ない。ただ「私はこうだった」と語ってもらえばいい。

歴史を知ることは大切である。しかし、歴史を知りすぎることによって、自分自身の記憶まで歴史に合わせて整理してしまう危険があるということを忘れてはならないと思う。

あと7155日 迎え火とパンダの追憶

毎年八月になると、お盆がやってくる。今年も十三日に迎え火を焚いて、両親と犬の小太郎の霊を迎えた。

車庫の前で火を焚いていると、不思議なもので、亡くなった者たちが本当に目の前に帰ってくるような気がしてくる。今年も野菜が値上がりしているので、きゅうりの馬も、なすの牛も用意していない。さて、乗り物がないのだから、自力で帰ってこられただろうか――などと他愛のないことを考えているうちに、迎え火は燃え尽きた。

母が亡くなった歳まで、あと十年になった。いよいよその歳が近づいてきたのだなあと改めて感じるとともに、ここまでの年月があまりにも早く過ぎてしまったことにも驚いている。

普段は両親のことを特に思い出すわけでもない。日々の暮らしの中では、いつの間にか記憶の奥へ沈んでいる。ところが、小太郎のことは時々思い出す。スマホに残してある写真や動画を開いて、しばらく眺めることもある。子供のような存在だったからだろうか。犬一匹のことなのに、その死が残したものは意外に大きい。

そんなお盆の時期に、もう一つ、古い記憶を呼び起こす知らせが届いた。

今月五日、同期生だった那須君が亡くなったという。

近況を知る同期生の一人によれば、那須君は数年前に肝臓がんの手術をした後も、まるで長生きを諦めたかのように酒を飲んでいたという。本人は、自分に残された時間を分かっていたのかもしれない。那須君のことを聞いて、真っ先に思い出したのは五十年以上前の出来事だった。

昭和四十八年十月。川崎の日立造船でドック入りしていた練習船「北斗丸」に乗船していた頃である。せっかく東京に来たのだから、どこか見物に行こうということになり、那須君と二人で上野動物園へ向かった。目的は、中国から来たあのカンカンとランランである。日本に来たばかりで、その日が公開初日だった。上野動物園にはパンダを見るための特設ゲートまで設けられていた。私たちはそこに並んだ。

一時間ほどして、彼方まで永遠に続いているのではないかと思うほど長い人の列が、ゆっくりと動き始めた。十列ほどに並んだ人々が流れに乗って、少しずつ前へ進んでいく。やっとパンダ舎の前まで来たと思ったら、今度は「止まらないでください」と職員に促された。立ち止まることもできず、人の流れに押されるようにして、あっという間に外へ出された。

結局、パンダはほとんど見えなかったし、何も覚えていない。それでも、「パンダの公開初日に上野動物園へ行った」という記憶だけは、五十年以上たった今も残っている。

考えてみれば、これはある意味で貴重な経験だった。その後、上野動物園でパンダを見た人は、それこそ何億人にもなるかもしれない。しかし、あれから五十年以上たった今まで、公開初日に特設ゲートに並んでカンカンとランランを見に行ったという人には、一度も出会ったことがない。

そしてこの話を人にする時には、いつも一緒に行った那須君のことを思い出していた。卒業後は会うこともなかった。だから私の記憶の中に残っている那須君は、五十年以上前、詰襟の制服を着て、上野動物園でパンダを見ようとしていた青年の姿のままである。

不思議なものだと思う。パンダはほとんど見えなかったのに、那須君と二人で長い行列に並んでいたことは、半世紀を過ぎても消えない。人の記憶というものは、見たものをそのまま残すのではないのだろう。何気なく過ぎていった一日の中から、ほんの一場面だけを拾い上げ、それを何十年も大切にしまっていることがある。

今年のお盆、迎え火を焚きながら、私は両親と小太郎のことを思っていた。そして、そのあとで那須君のことも思い出した。

那須君、あの頃は本当には楽しかったな。

安らかに眠ってほしい。

あと7181日 Kさんの思い出

九十五歳のKさんが老人ホームへ入所した。家族から「もう家へ帰ることはありません」と聞いた時、覚悟はしていたつもりでも胸の奥にぽっかり穴が開いたような気持ちになった。

Kさんは七十八歳までに日本百名山をすべて登った健脚の持ち主だった。山を引退した後も八十八歳まで町内会の役員として地域のために働き続けた。「百まで生きるよ」と笑って話していた姿が、今でも目に浮かぶ。

転機になったのは三年前、九十二歳の時だった。椅子から落ちて背骨を痛め、それから少しずつ体力が衰えていった。そして今年六月一日、熱中症で救急搬送された。退院はしたものの、自宅へ戻ることはなく、そのまま施設へ入ることになった。

人は誰でも老い、いつかは弱り、そして人生を終える。そのことは頭では十分理解している。それでも、長年元気だった人が少しずつ力を失っていく姿を見るのは、やはり寂しい。

私は民生委員になって七年になる。その間、担当してきた独居高齢者のうち九人が亡くなるか施設へ入所された。民生委員にならなければ、おそらく付き合うこともなかった人たちである。知らなければ悲しむこともなかっただろう。しかし、一度関われば、その人の人生の一部を知り、人柄を知り、思い出ができる。だから別れは決して他人事ではなくなる。

私が初めて町内会長や公民館分館長を引き受けた頃も、何かわからないことがあれば、まずKさんの家を訪ねた。Kさんは実に話好きで、こちらの質問には丁寧に経験を交えて教えてくれた。ところが本題が終わると話はどんどん広がる。呉空襲や松山空襲の体験、若い頃は海軍へ行きたかったこと、戦後は木型職人として腕一本で生き抜き、日本の名工に選ばれるまでになったことなど、時間を忘れて聞き入ったものである。

激動の昭和を生き抜いた人たちは、学校で歴史を学ぶよりも重みのある人生を語ってくれる。苦しい時代を努力と技術だけを頼りに歩み、退職後は今度は地域社会のために働く。その姿勢には一貫して「自分にできることで世の中に恩返しをする」という信念があったように思う。

私たちの世代にとって、Kさんのような生き方は一つの目標だった。立身出世ではなく、誠実に働き、地域に尽くし、最後まで前向きに生きる。その背中を見て、多くのことを学ばせてもらった。

Kさんが施設へ入ったことで、一人の高齢者が町を離れたという以上に、一つの時代が静かに幕を下ろしたような気がしている。昭和という時代を身をもって生きた人たちが、また一人、私たちの日常から遠ざかっていくのである。

民生委員という仕事は決して楽ではない。高齢者が弱っていく姿を見守り、時には別れを受け入れなければならない。知らなければ味わうことのない寂しさを何度も経験する。しかし、その一方で、一人ひとりの人生に触れ、多くの教えを受け、人として少しずつ成長させてもらっていることも確かである。

これが私にとって人生最後の御奉公なのだろう。そう思えば、この少ししんどい役目にも意味がある。Kさんから教わった数々のことを胸に、私もまた、自分にできる小さな務めを果たしていきたいと思っている。

あと7185日 夏の訪れと人生

毎年夏になると、私は家の周囲でクマゼミが最初に鳴いた日を記録している。2021年は7月16日、2022年は7月12日、2023年は7月17日、2024年は7月15日、2025年は7月13日、そして今年2026年は少し遅れて7月21日だった。

この鳴き声を耳にすると、「今年も夏が来た」と実感する。梅雨明けの強い日差しも、青々とした木々も夏らしいが、私にとって本当の夏の始まりは、クマゼミの第一声なのである。

若い頃は、季節が巡ることも、自分がその季節を迎えることも当たり前だと思っていた。しかし年齢を重ねると、その当たり前が実は何よりもありがたいことだと気づかされる。

一年の間には、病に倒れる人もいれば、大切な人との別れを経験する人もいる。災害や事故に遭い、人生が一変する人も少なくない。来年の夏を迎えられる保証は誰にもないのである。

だからこそ、今年もまたクマゼミの声を聞くことができたことがうれしい。暑い朝、どこからともなく響いてくるあの力強い鳴き声を耳にすると、自分もまた無事に一年を過ごし、この季節までたどり着けたのだという安堵を覚える。

幸福というと、地位や財産、成功のような大きなものを思い浮かべがちだが、年を重ねるにつれ、その考えは変わった。四季の移ろいを感じ、今年も変わらぬセミの声を聞きながら暮らせることも、何ものにも代え難い幸せではないだろうか。

来年もまた、この記録帳に新しい日付を書き込めるかどうかはわからない。それでも今年、その一行を書き加えることができた。それだけで十分うれしい。

人生は特別な出来事だけで成り立っているのではない。毎年変わらず訪れる夏を迎え、クマゼミの第一声に耳を澄ませる。そんな何気ない日常を積み重ねられることこそ、老後の人生でしみじみと感じる本当の幸せなのだと思う。

あと7188日 老後の贅沢

最近、ユーチューブで昔のテレビドラマ「どてらい男」を見つけた。昭和四十八年から五十二年まで放映された人気ドラマで、今七十歳以上の人なら、おそらく知らない人はいないだろう。私は昭和四十八年から五十年までは外航船に乗っていたため、放送は断片的にしか見ていないはずだが、それでも主人公・山下猛造の豪快な生き方は強く記憶に残っている。

物語は、戦前に福井から大阪・立売堀の機械問屋へ丁稚奉公に上がった猛造が、人一倍働き、二十歳で独立して自分の店を持つところから始まる。しかし、戦争によって招集され沖縄へ送られ、その間に大阪大空襲で立売堀は焼け野原となり、店も財産もすべて失う。復員後は再びゼロから商売を始め、幾多の苦難を乗り越えて大成功を収める。大阪商人のど根性を描いた、まさに痛快な立身出世物語である。

原作・脚本は花登筺だけあって、次から次へと事件が起こり、商売、人情、恋愛、家族、戦争と話題が尽きない。まさにドラマのてんこ盛りである。

ところが、ユーチューブで見ていて一つ気が付いたことがあった。テレビでは一週間に一話の放送だったが、ユーチューブではタイトルもコマーシャルも飛ばして何話でも続けて見ることができる。最初は夢中になって十話、二十話と見進めたが、不思議なことにだんだん疲れてきた。一話ごとの面白さは変わらないのに、感動が薄れ、食傷気味になってしまうのである。

考えてみれば、テレビドラマは一週間待つことを前提に作られていた。一話を見終えると、「来週はどうなるのだろう」と期待しながら七日間を過ごす。その時間が余韻となり、物語をより深く味わわせてくれたのである。便利になった現在では、一気に見られることが長所のように思われているが、必ずしもそうではないらしい。

「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という孔子の言葉がある。どれほど良いものでも、過ぎればありがたみを失う。豪華な料理も毎日食べれば飽きるし、旅行も続けば家が恋しくなる。何事もほどほどだからこそ、その価値が生きてくるのである。

これは老後の暮らしにも通じる話ではないだろうか。現役時代は効率を求め、少しでも多くの仕事をこなすことが求められた。しかし、仕事を離れた今は、同じ価値観で毎日を過ごす必要はない。時間はいくらでもあるからといって、旅行も趣味も読書も予定を詰め込めば、かえって疲れるだけである。

むしろ、今日はここまでにして続きは明日にしようという余裕が、毎日の楽しみを長続きさせる。昔のドラマを一話だけ見て余韻に浸る。季節の移ろいに目を留める。庭の草花を眺め、友人とゆっくり語り合う。そんな何気ない時間を味わえることこそ、長年働いてきた者に与えられた老後の贅沢なのだと思う。

「どてらい男」を見ながら、私は思いがけず人生の楽しみ方を教えられた気がした。老後とは、時間を消費する生活ではない。時間を味わう生活である。何でも急がず、腹八分目でやめておく。そのくらいが、残された人生を最も豊かにしてくれるのではないだろうか。

あと7212日 熊対策と人命優先

最近、熊のニュースを聞かない日がない。北海道や東北だけではなく、本州各地で熊の目撃情報が相次ぎ、怪我人や死者まで出ている。かつては山奥の動物だった熊が、人里のすぐ近くまで現れるようになった。学校が休校になり、通学路に警察官が立ち、住民が外出を控える。そんな光景が珍しくなくなっている。

それにもかかわらず、熊を駆除すると「かわいそうだ」「殺す必要はない」という苦情が寄せられるという話を耳にする。もちろん動物をむやみに殺したいと思う人はいないだろう。私も熊そのものを憎んでいるわけではない。しかし、人命と野生動物の命が衝突したとき、どちらを優先するべきかと問われれば、答えは明らかではないだろうか。

熊は人間に悪意を持っているわけではない。本能のままに行動しているだけである。しかし、その結果として人が命を落としたり重傷を負ったりするのであれば、社会は人間を守る側に立たざるを得ない。これは熊が悪いという話ではなく、人間社会を維持するための当然の判断である。

思い出すのは、かつて野犬が社会問題となっていた時代のことである。昔は野犬に襲われる事故も珍しくなかったという。狂犬病の脅威もあった。そこで行政は野犬対策を徹底的に進めた。その是非について議論はあっただろうが、結果として日本は狂犬病を撲滅し、人々は安心して暮らせるようになった。

もちろん野犬と熊は同じではない。熊は本来、山林の生態系を構成する野生動物である。しかし、人里への出没が常態化し、人々が日常生活の中で命の危険を感じるようになれば話は別だ。住民が毎日びくびくしながら暮らさなければならない社会を、果たして正常と言えるだろうか。

現在の対応は、多くの場合、猟友会の善意と努力に依存している。しかし猟友会員の高齢化は進み、危険な駆除活動を担う人材は減る一方である。これほど深刻な問題になっている以上、もはや地域任せで済ませる段階ではないだろう。

必要なのは、人命保護を最優先に据えた明確な方針である。熊の保護そのものを否定する必要はない。しかし、人里に繰り返し現れ、人間に危害を加える恐れのある個体については、迅速に対応できる体制を整えなければならない。そのためには、猟友会だけに頼るのではなく、専門的な訓練を受けた公的なハンター組織を設けることも検討すべきだろう。

人間は古来、自らの生活圏を守りながら生きてきた。自然を尊重することは大切だが、それは人間の安全が確保されてこそ成り立つ価値観である。熊の保護か、人間の保護かという二者択一ではない。しかし、両者が衝突したときには、まず人間を守る。それが行政の第一の責務であり、社会の基本的な約束事でもある。

熊の出没が連日のように報じられる今、私たちは改めて人間と野生動物の境界線をどこに引くのかを考える時期に来ているのかもしれない。自然との共生は理想として大切だ。しかし、その理想のために人々が安心して暮らせなくなってしまうなら、本末転倒ではないだろうか。人間が安心して生活できる社会を守ること。その原点に立ち返るべき時が来ているように思う。

あと7214日 建築物が語る時代の精神

以前このブログで、戦後の建築物や橋梁のデザインが機能的になり過ぎて面白くなくなった、ということを書いたことがある。もちろん安全性や経済性を考えれば、ある程度は仕方のないことなのだろう。機能を突き詰めれば、自然と似たような形に収斂していく。飛行機がどこの国で作られても似た姿になるように、建物もまた同じなのかもしれない。しかし年を取るにつれて、それだけでは説明できない何かがあるように思えてきた。

私が昭和43年に入学した時、母校は大正時代に建てられた木造校舎だった。廊下を歩くと床がきしみ、冬は隙間風が入ってきたが、どこか温かみがあった。長い年月を経た木の色合いには独特の落ち着きがあり、子供心にも醸し出す歴史の重みというものを感じていたように思う。

ところが昭和45年、新しい鉄筋コンクリート校舎が完成すると、その木造校舎はあっさり取り壊されてしまった。残ったのは四角いコンクリートの建物である。新しい校舎は明るく便利だったが、なぜか心に残る風景は消えてしまったような気がした。

あの頃の日本は、とにかく前へ進むことが求められていた時代だった。古いものは遅れているものと考えられ、効率と合理性こそが善とされた。全国で木造の駅舎が姿を消し、歴史ある建物が取り壊され、代わりに似たようなビルや公共施設が建てられていった。その結果、日本は豊かになった。便利にもなった。しかし、その代償として街から物語が失われていったようにも思う。

建築物というのは、本来単なる箱ではないのだろう。そこにはその時代の人々が何を大切にし、何を美しいと感じていたかが刻み込まれている。古い寺や神社を訪れると、その時代の人々の祈りが伝わってくる。明治の洋風建築には近代国家を目指した気概が感じられる。戦前の駅舎には、その土地の玄関口としての誇りがある。そう考えると、建築物は歴史の証人なのだと思う。

スペインのサグラダ・ファミリアが100年以上かけて今なお建設され続けているのも、単に建物として必要だからではないだろう。そこには後世へ残したい理念や願いがある。もし雨風をしのぐだけなら、もっと簡単な建物で十分なはずだ。それでも人は手間をかけ、時間をかけ、美しいものを作ろうとする。それは人間が効率だけでは生きられない存在だからではないだろうか。

最近の街並みを眺めていると、便利になった反面、どこへ行っても同じような風景が広がっているように感じることがある。駅前には似たような商業施設が建ち並び、公共施設も無難なデザインが多い。もちろん失敗のない設計なのだろうが、百年後にその建物を見た人が令和という時代を感じ取れるだろうかと考えてしまう。

建築物には、その時代の精神を未来へ伝える役割がある。後世の人々は建物を通して私たちの時代を知る。だからこそ、効率や経済性だけではなく、その時代ならではの理想や美意識を形に残すことも大切なのだと思う。

便利さを追い求めた時代を経て、今あらためて失ったものを振り返る余裕が私たちには生まれてきた。建築物を単なる箱としてではなく、時代の記憶を宿す存在として見直してみる。そんな視点が、これからの街づくりには必要なのではないか。

大正時代の木造校舎を思い出すたび、私はそんなことを考えるのである。