無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7095日 アコーディオンを弾きたい

ユーチューブを見ていたら、歌いながらアコーディオンを弾いている人がいた。楽しそうに演奏する姿を見ているうちに、私もアコーディオンを弾いてみたくなった。楽器を自由に操り、好きな歌を自分の伴奏で歌えたら、どんなに楽しいだろう。そんな思いが、急に湧いてきたのである。

 とはいえ、いつまで続くか分からない。いきなり楽器を買うのももったいないので、娘が小学生の頃に使っていたピアニカを押し入れの奥から探し出し、まずは音を出すところから始めることにした。

 考えてみれば、鍵盤楽器を弾くのは生まれて初めての経験だった。我が家では音楽など軟弱な趣味として扱われていたから、楽器に親しむ機会はなかった。それでも高校入試には音楽があり、移調や転調などを苦労して勉強したものだ。ところが、今になって鍵盤楽器を弾いてみると、実際に音を出すことができれば、あの頃の勉強もずいぶん分かりやすかったのではないかと思う。何事も、実際に経験してみなければ分からないものだ。

 もう五十年も前になるが、練習船で一緒だった前田君の話を思い出した。卒業後、初めて乗った貨物船でアメリカのニューオーリンズに寄港した際、彼はデキシーランドジャズを聴いてすっかり魅了され、アコーディオンを買ったという。航海中に船室で練習していたら、隣の部屋からうるさいと怒られたそうだ。それでも練習を続け、多少は弾けるようになったらしい。

 私が知っていた前田君は、特に楽器に縁のある男ではなかった。そんな彼にできたのなら、私にもできるのではないか。そんな期待もあった。

 しかし、現実は甘くなかった。ピアニカなら右手だけで弾けると思ったのだが、どの指でどの鍵盤を押せばよいのかさえ、よく分からない。ほぼ毎日一時間ほど練習しているのに、指は思うように動いてくれない。二年前にけがをした右手の動きが悪いことも悔やまれる。まさか、この年になって鍵盤楽器を弾きたくなるとは、あのときは想像もしなかった。

 それでも、三カ月ほど練習を続けている。今は「誰か故郷を思わざる」と「高原の駅よさようなら」の二曲を、アコーディオン用の楽譜を見ながら練習している。鍵盤を見ていれば何とか弾けるようになったが、見ないで弾くのはまだ難しい。これができるようになったら、いよいよアコーディオンを買うつもりでいる。

 考えるだけで楽しみになる。アコーディオンを手に入れたら、どんな曲を弾こうか。昔懐かしい歌謡曲を一曲ずつ覚えていくのもよい。やがては歌いながら伴奏をつけ、気持ちよく一曲を弾き終える。そんな日が来たら、今まで知らなかった喜びを味わえるに違いない。人が集まる場所で演奏できるようになれば、楽しみはさらに広がるだろう。

 もちろん、そこまで上達できる保証はない。十年続けたら、多少は格好がつくようになるだろうか。その頃には八十歳を過ぎている。それでも、十年後に弾けるようになっていたいのなら、始めるのは今しかない。何もしなければ、十年後も弾けないままなのだから。

 これまでの人生で、楽器を弾ける人に憧れたことはあっても、自分で始めようとは思わなかった。今になって、その楽しみを知ろうとしている。ずいぶん遠回りをしたものだが、残された時間を考えて諦めるより、これからの時間に期待する方がよほど楽しい。

 今日も押し入れから出したピアニカを吹いている。まだ指はぎこちなく、曲もたどたどしい。しかし、昨日できなかったことが今日できるようになれば、それだけでうれしい。

 いつかアコーディオンを抱え、好きな歌を口ずさみながら、思いどおりに演奏できる日が来るだろうか。十年後の自分を想像すると、なんだか新しい人生が始まったような気がする。七十歳を過ぎても、まだ楽しみにできることがある。それだけでも、楽器を始めた甲斐があったと思う。

あと7098日 盲学校見学

先日、地区民生委員の人達と、盲学校の見学と授業参観に行ってきた。私にとって初めての経験だった。

目の不自由な人たちが、どのような教材を使い、どのように勉強しているのか。それまで具体的に考えたこともなかった。点字を使って本を読むことくらいは知っていたが、実際の授業がどのように行われているのか、まったく想像がつかなかった。

参観したのは、音楽、美術、国語、世界史、地理、はり、機織りなど、さまざまな授業だった。そこで驚いたのは、ほとんどの授業が教師と生徒のマンツーマンで行われていたことである。中には、教師二人が一人の生徒を教えている授業もあった。まさに至れり尽くせりである。

もちろん、目の不自由な生徒に一般の学校と同じ方法で教えることは難しい。教材にも工夫が必要だし、一人ひとりの障害の程度に応じた指導も欠かせない。実際の授業を見て、教育には相当な手間と人手が必要なのだと実感した。

見学のあと、全校生徒はわずか十五人ほどであるのに対し、教職員は百人近くいると聞いた。なるほど、あれだけ手厚い教育ができるわけである。

盲学校には視力〇・三未満の人などが入学できるという。ただし、視力が低くても通常の学校で学ぶ子供は多いそうだ。県内に一校しかないため、遠方から通う生徒は寄宿舎で生活している。見学した寄宿舎は新しく、設備も整っていて快適そうだった。

もう一つ興味を引かれたのは、あん摩マッサージ指圧師や鍼灸師の国家試験において、合格率は一〇〇%だと説明されたことである。生徒一人ひとりに合わせた教育が、専門的な技術の習得や資格取得につながっているのだろう。障害があっても、技術を身につけて社会で自立していく道が用意されていることに、心強さを感じた。

それにしても、全校生徒が十五人ほどというのは少ない。通常の学校で学ぶことを希望する人もいるだろうが、盲学校の教育内容や卒業後の進路を知らず、選択肢として考えたことのない人もいるのではないだろうか。これほど充実した教育が行われていることを、もっと多くの人に知ってもらいたいと思った。

私は民生委員になって八年になる。高齢者の自宅を訪問し、話を聞き、困りごとがあれば相談に乗る。そうした活動を続けてきたが、今回の見学で改めて気づいたことがある。

地域には、普段の生活では目にすることのない施設や支援の仕組みがあり、そこで多くの人が働いている。必要な人に必要な支援をつなぐためには、民生委員自身が、そうした地域の実情を知っておかなければならない。

民生委員を八年続けてきても、まだ知らないことがたくさんある。今回の見学は、地域を見る目を広げてくれる貴重な経験となった。

あと7116日 さよなら花子

9月28日午前8時30分、花子が永眠した。満17歳2か月だった。小型犬としては長生きした方だろう。

生まれつき股関節に問題があり、それが原因だったのか、これまで3度、歩けなくなったことがあった。それでも基本的には健康な子だった。よく食べ、よく眠り、控えめで穏やかな性格だった。誰にでも優しく、反抗したり、噛みついたりしたことは一度もない。本当にいい子だった。

昨年末頃から歩くのが難しくなり、ソファにも飛び上がれなくなった。フローリングでは足が滑るので、家の中にマットを敷き詰めた。それでも元気な頃は、毎日午後4時半になると自分のお椀の前に座って食事を催促した。女房が支度を始めると、足元をうろうろしながら吠える。その光景が17年間、当たり前のように繰り返されてきた。

その花子がいなくなった今、家の中が妙に広く感じる。

最後の3日間、花子は激しい嘔吐と下痢を繰り返した。首の右側にできた腫瘍がつぶれ、その影響もあったのだろう。すでに意識も朦朧としていた。私はただ、もう苦しまないでほしい、早く楽になってほしいと願っていた。

28日の午前4時頃、激しく嘔吐したあと、花子は突然ぐったりと崩れ、呼吸が弱くなった。そのまま戻ることはなかった。最後に一瞬、ぐっと首をもたげ、息を吸おうとした。しかし、それも叶わなかった。

私は両親の死も経験している。しかし二人とも病院で亡くなった。そこには、何かあれば医師や看護師が対応してくれるという安心感があった。

花子の死は違った。

家で死ぬということは、こういうことなのかと思った。家族には苦しみを取り除く知識も手段もない。ただそばにいて声をかけるしかないと思っていたが、実際にはそうではなかった。一晩中体をさすり、下痢の便を拭き、体を持ち上げて嘔吐させ、口の中を拭いてやる。死を待つということは、静かに時間が過ぎていくのを眺めることではなかった。

花子は最後まで苦しみに耐え、私たちもまた、その苦しみから目をそらすことができなかった。

孫たちも花子の最期を見た。その姿が幼い彼らの心に何を残したのかはわからない。ただ、命はいつか終わること、そして弱っていく者をそばにいる人が支えることを、言葉ではなく現実の姿として知ったのではないかと思う。

5年間、霊園に預けていた小太郎の遺骨も持ち帰った。今、小太郎と花子は並んで座っている。

四十九日が過ぎたら、二人を庭に埋め、小さな墓を作るつもりだ。

あの世があるのかどうか、私にはわからない。

それでも、もしそこでも犬たちが元気に走り回れるのなら、小太郎と花子は、また昔のように二人で遊んでいることだろう。

17年間、いつも家の中にいた花子。

いなくなって初めて、その存在の大きさがわかった。

ありがとう、小太郎。ありがとう、花子。

 

 



 

あと7121日 花子の最後のお別れの挨拶

女房と話し合った結果、最後にもう一度、花子を動物病院へ連れて行くことにした。

治療のためではない。これから先、もし花子が痛がったり、呼吸が苦しくなったりしたとき、安楽死をお願いすることができるのか。それだけは、あらかじめ獣医さんに相談しておきたかった。

動けなくなった花子を抱えて車に乗せる。病院までは十五分ほどである。以前なら何でもない距離だったが、今はその十五分が、花子にとって最後の外出になるかもしれないと思えてならなかった。

獣医さんは、こちらの話を静かに聞いてくれた。そして、家族で相談して結論が出れば、安楽死は可能だと言ってくれた。

「腫瘍と思われる塊は、この一週間で五ミリほど大きくなっています。これが小さくなることは、まずないでしょう。腫瘍そのものがすぐに悪さをするとは限りませんが、転移などがあれば、安楽死を選ぶことになるかもしれません」

そう説明してくれたあと、注射器で少量の水を花子の口に入れてくれた。帰り際には、「ポカリなどを少しずつ口に入れてあげてください」と言って、注射器まで渡してくれた。

家に帰れば、水分を少しでも与えてやりたい。できるだけ長く生きていてほしいと思う。しかし、それが花子にとって本当に幸せなのかと考えると、答えは簡単ではない。

長く生きれば、その分だけ苦しむ可能性も高くなる。

「少しでも長く生きてほしい」という気持ちと、「苦しくなる前に逝かせてやりたい」という気持ち。その二つの間で、心が揺れる。

何も食べなくなった花子が、あとどれくらい生きられるのかは分からない。ただ、もうそれほど長くはないのだろうと思う。

病院を出た私たちは、その足で老人ホームにいる女房の母親を訪ねた。

母は九十四歳、花子は十七歳である。

人間と犬だから、年齢をそのまま比べることはできない。それでも、どちらも長い歳月を生きてきて、人生の終わりが遠くないところまで来ていることに変わりはない。

母は花子をとても可愛がってきた。

その日も、花子を膝の上に載せ、いつものように話しかけていた。花子はもうほとんど動けない。母の膝の上で静かにしている。

窓から、気持ちのいい風が吹き抜けていった。

私はその光景を眺めながら、これで花子のお別れの挨拶は、すべて終わったのだと思った。

先住犬の小太郎が死んだときは、急変だった。私と女房と二男が家にいただけで、別れを惜しむ時間などなかった。

その点、花子は幸せなのかもしれない。

十七年間の間に花子と出会い、可愛がってくれた人たちに、最後にもう一度会うことができた。そして私自身も、花子と別れる覚悟をする時間を与えてもらった。

死というものは、突然やって来ることもあれば、こうして少しずつ近づいてくることもある。今の私は、花子が死ぬことを考えて悲しんでいるというより、十七年間一緒に暮らしてきた時間を、静かにたどっているような気がする。

これから花子がどのような過程を経て旅立つのかは分からない。

できることなら、もうそんなに頑張らなくていい。

食べられなくなった体で、無理をして生きようとしなくてもいい。

ただ、苦しくなる前に、眠るように安らかに逝ってほしい。

それが、十七年間一緒に暮らしてきた私から、最後に花子へ贈る言葉である。

そして、花子がいなくなったあとも、十七年間という長い時間だけは、私の中から消えることはない。

あと7122日 死にゆく花子

花子の死が、少しずつ近づいている。

十七歳になった花子は、この三日間、何も食べなくなった。水は少し飲む。首にできた腫瘍は握りこぶしほどに大きくなり、食道を圧迫しているのかもしれない。それでも、ほとんど一日中、すやすやと眠っている。苦しそうな様子がない。それが今の私には何よりうれしい。このまま眠るように旅立ってくれればと思う。

花子はこれまで三度、足が立たなくなったことがある。そのたびに回復してきた。八月の血液検査も良好で、心臓も元気だと言われた。だから、食べなくなったからといって、すぐに死ぬわけではないのかもしれない。

それを見ながら、私は「死ぬ」ということについて考えている。

動物は、食べることをやめ、静かに身体の力が尽きていく。もちろん、何も食べないことが直ちに「死ぬ準備ができた」という意味なのか、私には分からない。ただ、花子を見ていると、命には命なりの終わり方があるのだと思えてくる。

生まれるときは、母親の力を借りる。けれど死ぬときは、最後には自分自身の身体が、その時を迎えるしかない。

昔の人間は、今よりずっと死を身近に見ていた。祖父母が亡くなり、父母が亡くなり、叔父や叔母が亡くなる。病院ではなく、自宅で息を引き取る人も多かった。子や孫は、その最期を目の前で見ることによって、死とは特別な出来事ではなく、生き物が最後にたどり着く自然な姿であることを、知らず知らずのうちに学んでいたのではないだろうか。

しかし今の時代、人間は死を遠ざけることができるようになった。食べられなくなれば栄養を補い、呼吸ができなければ機械で助ける。命を延ばす医療は、多くの人を救ってきた。その一方で、どこまで命を延ばすことが、その人自身の望みにかなっているのかという難しい問題も残る。

秋分の日、二人の息子と娘の三家族が集まった。偶然だったが、花子の送別会になった。

二〇〇九年に我が家へやって来たころの写真を見ると、手のひらに収まるほど小さく、とぼけた顔をしている。先住犬の小太郎の後を追いかけて遊んでいた。小太郎も優しかった。二匹は本当にいいパートナーだった。

「生きて花子に会えるのは、今日が最後かもしれない」

そう子供たちに伝え、みんなで花子を囲んで写真を撮った。花子にも、家族みんなの気配が伝わっていたのだろうか。最後にみんなに会えて、きっと嬉しかったのだと思いたい。

小太郎は僧帽弁閉鎖不全で、まだ食べる力が残っているうちに短い時間で死んだ。あのとき私は、強制的に命を断ち切られたような気がして、見ているのがつらかった。

その点、花子は違う。自分の身体の力が少しずつ失われていく時間を持っている。長く生きたからこそ、家族にも別れを告げることができた。そして私たち夫婦にも、花子を見送り、覚悟する時間を与えてくれた。

花子の眠る姿を見ていると、不思議なことに悲しさだけではないものを感じる。私も、できることなら最後まで自分らしく生き、やがて静かに眠るように死にたい。

花子は今、私に死に方を教えてくれているのかもしれない。

あと7149日 災害映像が教えてくれるもの

 ネパールで発生した洪水の映像を見て、その凄まじさに驚いた。上流で氷河湖が崩壊し、大量の水が一気に流れ出したと報じられている。濁流は土砂や木々を巻き込み、家や道路、車などを次々と押し流しながら、急勾配の川をものすごい勢いで流れ下っていく。あれだけのエネルギーを前にすれば、人間にできることなどほとんどない。自然の前では、人間は実に無力な存在なのだと思い知らされる。

 このような災害は、おそらく過去にも何度となく繰り返されてきたのだろう。しかし昔なら、「ネパールのどこかで大洪水が起きたらしい」というニュースを新聞やテレビで知るだけだった。それが今では、スマートフォンで撮影された映像がインターネットを通じて瞬時に世界中へ伝わる。

 東日本大震災もそうだった。津波が町をのみ込んでいく光景を、私たちはテレビやインターネットで繰り返し見ることになった。あれほど巨大な津波の恐ろしさを、これほど多くの人間が同時に映像として共有したことは、人類史上初めてだったのではないだろうか。

 そして、災害映像には、災害そのものだけでなく、もう一つ重要なものが記録されている。それは、その場にいた「人間の行動」である。

 今回の洪水映像を見ていると、後ろから濁流が迫っているのに、川下へ走っていく人がいる。なぜ山へ登らないのか。なぜ車に乗ろうとするのか。なぜ、もっと早く逃げないのか。安全な場所から映像を見ていると、不思議に思うことがある。

 しかし、そこに災害時の人間心理の難しさがある。危険が迫っていることを頭では理解していても、突然の恐怖や混乱の中では、冷静に判断することができなくなる。周囲の人間が逃げていなければ、自分も「まだ大丈夫だ」と考えてしまうかもしれない。

 もし大川小学校を、当時の状況を高い場所から撮影した映像が残っていたとしたら、映像を見ている私は「向こうから津波が来ているのに、なぜいつまでも校庭にいるのだ。早く山へ走れ」と叫んでいたことだろう。しかし、それは安全な場所から結果を知って見ているから言えることである。

 だからこそ、現在インターネット上に蓄積されている災害映像は、単なる記録以上の価値を持っているのではないか。

 映像を解析すれば、災害が発生した瞬間、人間がどのように動き、どのような判断をし、何をきっかけに避難を始めたのかを調べることができる。逃げ遅れた人だけでなく、いち早く安全な場所へ移動した人の行動も分析できるだろう。

 これまでの防災研究が「どこへ逃げるべきか」を中心に考えてきたとすれば、これからは「人間は実際の災害現場で、どう動くのか」を研究する必要があるのではないか。

 スマートフォンは、災害の恐ろしさを世界中に伝えるだけではない。そこには、次に同じ災害に遭遇したとき、私たちがどうすれば生き残れるのかを考えるための、膨大な情報が記録されている。

 災害映像を見ることは、単に恐ろしさに驚くことではない。その中に記録された人間の行動から、自分ならどうするのかを考えること。それ自体が、これからの防災教育の一つになっていくのかもしれない。

あと7151日 経験と歴史の狭間

先日、YouTubeで1996年11月放送の「朝まで生テレビ 元帝国軍人50人の戦争と平和」を見ていて、戦争の「証言」とは何なのか、あらためて考えさせられた。終戦から51年。当時20代、30代で戦争を経験した人たちが、まだ大勢健在だった。今から考えれば、これほど貴重な証言者が一堂に集まる機会は、もう二度となかっただろう。

ところが、番組を見ていて気になったのは、本人が実際に経験したことと、戦後になって身につけた戦争についての知識との境目が、ほとんど分からなくなっていることである。元一等兵や伍長が戦争全体の戦略を語り、水兵だった人が自分の経験したわけではない海軍の事件について詳しく話す。もちろん戦後に研究したことを語るのは自由である。しかし、それを「戦争経験者の証言」として聞くのには少し違和感がある。

ここには、証言というものが持つ、意外な落とし穴があるのではないか。

戦争を経験した人は、自分の体験を後世に伝えようとする。そのためには、自分が何を経験したのかを思い出さなければならない。しかし、人間の記憶はその後の人生から独立して存在しているわけではない。戦後、新聞を読み、本を読み、テレビを見、他人の話を聞く。やがて戦争についての知識が増えてくると、その知識によって自分の経験をもう一度理解し直すようになる。

最初は「自分の部隊ではこうだった」という小さな記憶だったものが、後から知った戦史と結びつき、「あれは戦争全体の中ではこういう意味だったのだ」と解釈されるようになる。つまり、経験を正確に伝えようと努力することが、逆にその経験を歴史によって肉付けしてしまうのである。しかも本人には、その変化に気づきにくい。

50年前の記憶を語っているつもりでも、その記憶の中には、50年間に読んだ本や聞いた話が入り込んでいる。「自分が見たこと」と「後から知ったこと」が、本人の中で一つになってしまうのだ。だから、戦争経験者が戦争について詳しく語るほど、それが純粋な「体験談」なのか、後から歴史によって意味づけされた「記憶」なのか分からなくなる。

これは、故意の改ざんとは全く違う。本人は嘘をついているつもりなどない。むしろ、自分の経験を正しく伝えたいと思っているからこそ、後から得た知識を使って記憶を整理してしまうのである。そしてテレビは、そこにさらに手を加える。

一人の元兵士が「自分の部隊ではこうだった」と話すより、「あの戦争は何だったのか」と語るほうが番組としては面白い。こうして個人の小さな経験が、大きな歴史の物語の中に組み込まれていく。しかし、本当に後世に残すべきなのは、案外そうした「小さな記憶」なのではないだろうか。

どこで何を食べたのか。誰と一緒だったのか。何が怖かったのか。上官はどんな人物だったのか。終戦の日に何を見たのか。そこには、後から歴史を勉強しなければ語れないような立派な意味など必要ない。ただ「私はこうだった」と語ってもらえばいい。

歴史を知ることは大切である。しかし、歴史を知りすぎることによって、自分自身の記憶まで歴史に合わせて整理してしまう危険があるということを忘れてはならないと思う。