無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7116日 さよなら花子

9月28日午前8時30分、花子が永眠した。満17歳2か月だった。小型犬としては長生きした方だろう。

生まれつき股関節に問題があり、それが原因だったのか、これまで3度、歩けなくなったことがあった。それでも基本的には健康な子だった。よく食べ、よく眠り、控えめで穏やかな性格だった。誰にでも優しく、反抗したり、噛みついたりしたことは一度もない。本当にいい子だった。

昨年末頃から歩くのが難しくなり、ソファにも飛び上がれなくなった。フローリングでは足が滑るので、家の中にマットを敷き詰めた。それでも元気な頃は、毎日午後4時半になると自分のお椀の前に座って食事を催促した。女房が支度を始めると、足元をうろうろしながら吠える。その光景が17年間、当たり前のように繰り返されてきた。

その花子がいなくなった今、家の中が妙に広く感じる。

最後の3日間、花子は激しい嘔吐と下痢を繰り返した。首の右側にできた腫瘍がつぶれ、その影響もあったのだろう。すでに意識も朦朧としていた。私はただ、もう苦しまないでほしい、早く楽になってほしいと願っていた。

28日の午前4時頃、激しく嘔吐したあと、花子は突然ぐったりと崩れ、呼吸が弱くなった。そのまま戻ることはなかった。最後に一瞬、ぐっと首をもたげ、息を吸おうとした。しかし、それも叶わなかった。

私は両親の死も経験している。しかし二人とも病院で亡くなった。そこには、何かあれば医師や看護師が対応してくれるという安心感があった。

花子の死は違った。

家で死ぬということは、こういうことなのかと思った。家族には苦しみを取り除く知識も手段もない。ただそばにいて声をかけるしかないと思っていたが、実際にはそうではなかった。一晩中体をさすり、下痢の便を拭き、体を持ち上げて嘔吐させ、口の中を拭いてやる。死を待つということは、静かに時間が過ぎていくのを眺めることではなかった。

花子は最後まで苦しみに耐え、私たちもまた、その苦しみから目をそらすことができなかった。

孫たちも花子の最期を見た。その姿が幼い彼らの心に何を残したのかはわからない。ただ、命はいつか終わること、そして弱っていく者をそばにいる人が支えることを、言葉ではなく現実の姿として知ったのではないかと思う。

5年間、霊園に預けていた小太郎の遺骨も持ち帰った。今、小太郎と花子は並んで座っている。

四十九日が過ぎたら、二人を庭に埋め、小さな墓を作るつもりだ。

あの世があるのかどうか、私にはわからない。

それでも、もしそこでも犬たちが元気に走り回れるのなら、小太郎と花子は、また昔のように二人で遊んでいることだろう。

17年間、いつも家の中にいた花子。

いなくなって初めて、その存在の大きさがわかった。

ありがとう、小太郎。ありがとう、花子。

 

 



 

あと7121日 花子の最後のお別れの挨拶

女房と話し合った結果、最後にもう一度、花子を動物病院へ連れて行くことにした。

治療のためではない。これから先、もし花子が痛がったり、呼吸が苦しくなったりしたとき、安楽死をお願いすることができるのか。それだけは、あらかじめ獣医さんに相談しておきたかった。

動けなくなった花子を抱えて車に乗せる。病院までは十五分ほどである。以前なら何でもない距離だったが、今はその十五分が、花子にとって最後の外出になるかもしれないと思えてならなかった。

獣医さんは、こちらの話を静かに聞いてくれた。そして、家族で相談して結論が出れば、安楽死は可能だと言ってくれた。

「腫瘍と思われる塊は、この一週間で五ミリほど大きくなっています。これが小さくなることは、まずないでしょう。腫瘍そのものがすぐに悪さをするとは限りませんが、転移などがあれば、安楽死を選ぶことになるかもしれません」

そう説明してくれたあと、注射器で少量の水を花子の口に入れてくれた。帰り際には、「ポカリなどを少しずつ口に入れてあげてください」と言って、注射器まで渡してくれた。

家に帰れば、水分を少しでも与えてやりたい。できるだけ長く生きていてほしいと思う。しかし、それが花子にとって本当に幸せなのかと考えると、答えは簡単ではない。

長く生きれば、その分だけ苦しむ可能性も高くなる。

「少しでも長く生きてほしい」という気持ちと、「苦しくなる前に逝かせてやりたい」という気持ち。その二つの間で、心が揺れる。

何も食べなくなった花子が、あとどれくらい生きられるのかは分からない。ただ、もうそれほど長くはないのだろうと思う。

病院を出た私たちは、その足で老人ホームにいる女房の母親を訪ねた。

母は九十四歳、花子は十七歳である。

人間と犬だから、年齢をそのまま比べることはできない。それでも、どちらも長い歳月を生きてきて、人生の終わりが遠くないところまで来ていることに変わりはない。

母は花子をとても可愛がってきた。

その日も、花子を膝の上に載せ、いつものように話しかけていた。花子はもうほとんど動けない。母の膝の上で静かにしている。

窓から、気持ちのいい風が吹き抜けていった。

私はその光景を眺めながら、これで花子のお別れの挨拶は、すべて終わったのだと思った。

先住犬の小太郎が死んだときは、急変だった。私と女房と二男が家にいただけで、別れを惜しむ時間などなかった。

その点、花子は幸せなのかもしれない。

十七年間の間に花子と出会い、可愛がってくれた人たちに、最後にもう一度会うことができた。そして私自身も、花子と別れる覚悟をする時間を与えてもらった。

死というものは、突然やって来ることもあれば、こうして少しずつ近づいてくることもある。今の私は、花子が死ぬことを考えて悲しんでいるというより、十七年間一緒に暮らしてきた時間を、静かにたどっているような気がする。

これから花子がどのような過程を経て旅立つのかは分からない。

できることなら、もうそんなに頑張らなくていい。

食べられなくなった体で、無理をして生きようとしなくてもいい。

ただ、苦しくなる前に、眠るように安らかに逝ってほしい。

それが、十七年間一緒に暮らしてきた私から、最後に花子へ贈る言葉である。

そして、花子がいなくなったあとも、十七年間という長い時間だけは、私の中から消えることはない。

あと7122日 死にゆく花子

花子の死が、少しずつ近づいている。

十七歳になった花子は、この三日間、何も食べなくなった。水は少し飲む。首にできた腫瘍は握りこぶしほどに大きくなり、食道を圧迫しているのかもしれない。それでも、ほとんど一日中、すやすやと眠っている。苦しそうな様子がない。それが今の私には何よりうれしい。このまま眠るように旅立ってくれればと思う。

花子はこれまで三度、足が立たなくなったことがある。そのたびに回復してきた。八月の血液検査も良好で、心臓も元気だと言われた。だから、食べなくなったからといって、すぐに死ぬわけではないのかもしれない。

それを見ながら、私は「死ぬ」ということについて考えている。

動物は、食べることをやめ、静かに身体の力が尽きていく。もちろん、何も食べないことが直ちに「死ぬ準備ができた」という意味なのか、私には分からない。ただ、花子を見ていると、命には命なりの終わり方があるのだと思えてくる。

生まれるときは、母親の力を借りる。けれど死ぬときは、最後には自分自身の身体が、その時を迎えるしかない。

昔の人間は、今よりずっと死を身近に見ていた。祖父母が亡くなり、父母が亡くなり、叔父や叔母が亡くなる。病院ではなく、自宅で息を引き取る人も多かった。子や孫は、その最期を目の前で見ることによって、死とは特別な出来事ではなく、生き物が最後にたどり着く自然な姿であることを、知らず知らずのうちに学んでいたのではないだろうか。

しかし今の時代、人間は死を遠ざけることができるようになった。食べられなくなれば栄養を補い、呼吸ができなければ機械で助ける。命を延ばす医療は、多くの人を救ってきた。その一方で、どこまで命を延ばすことが、その人自身の望みにかなっているのかという難しい問題も残る。

秋分の日、二人の息子と娘の三家族が集まった。偶然だったが、花子の送別会になった。

二〇〇九年に我が家へやって来たころの写真を見ると、手のひらに収まるほど小さく、とぼけた顔をしている。先住犬の小太郎の後を追いかけて遊んでいた。小太郎も優しかった。二匹は本当にいいパートナーだった。

「生きて花子に会えるのは、今日が最後かもしれない」

そう子供たちに伝え、みんなで花子を囲んで写真を撮った。花子にも、家族みんなの気配が伝わっていたのだろうか。最後にみんなに会えて、きっと嬉しかったのだと思いたい。

小太郎は僧帽弁閉鎖不全で、まだ食べる力が残っているうちに短い時間で死んだ。あのとき私は、強制的に命を断ち切られたような気がして、見ているのがつらかった。

その点、花子は違う。自分の身体の力が少しずつ失われていく時間を持っている。長く生きたからこそ、家族にも別れを告げることができた。そして私たち夫婦にも、花子を見送り、覚悟する時間を与えてくれた。

花子の眠る姿を見ていると、不思議なことに悲しさだけではないものを感じる。私も、できることなら最後まで自分らしく生き、やがて静かに眠るように死にたい。

花子は今、私に死に方を教えてくれているのかもしれない。

あと7149日 災害映像が教えてくれるもの

 ネパールで発生した洪水の映像を見て、その凄まじさに驚いた。上流で氷河湖が崩壊し、大量の水が一気に流れ出したと報じられている。濁流は土砂や木々を巻き込み、家や道路、車などを次々と押し流しながら、急勾配の川をものすごい勢いで流れ下っていく。あれだけのエネルギーを前にすれば、人間にできることなどほとんどない。自然の前では、人間は実に無力な存在なのだと思い知らされる。

 このような災害は、おそらく過去にも何度となく繰り返されてきたのだろう。しかし昔なら、「ネパールのどこかで大洪水が起きたらしい」というニュースを新聞やテレビで知るだけだった。それが今では、スマートフォンで撮影された映像がインターネットを通じて瞬時に世界中へ伝わる。

 東日本大震災もそうだった。津波が町をのみ込んでいく光景を、私たちはテレビやインターネットで繰り返し見ることになった。あれほど巨大な津波の恐ろしさを、これほど多くの人間が同時に映像として共有したことは、人類史上初めてだったのではないだろうか。

 そして、災害映像には、災害そのものだけでなく、もう一つ重要なものが記録されている。それは、その場にいた「人間の行動」である。

 今回の洪水映像を見ていると、後ろから濁流が迫っているのに、川下へ走っていく人がいる。なぜ山へ登らないのか。なぜ車に乗ろうとするのか。なぜ、もっと早く逃げないのか。安全な場所から映像を見ていると、不思議に思うことがある。

 しかし、そこに災害時の人間心理の難しさがある。危険が迫っていることを頭では理解していても、突然の恐怖や混乱の中では、冷静に判断することができなくなる。周囲の人間が逃げていなければ、自分も「まだ大丈夫だ」と考えてしまうかもしれない。

 もし大川小学校を、当時の状況を高い場所から撮影した映像が残っていたとしたら、映像を見ている私は「向こうから津波が来ているのに、なぜいつまでも校庭にいるのだ。早く山へ走れ」と叫んでいたことだろう。しかし、それは安全な場所から結果を知って見ているから言えることである。

 だからこそ、現在インターネット上に蓄積されている災害映像は、単なる記録以上の価値を持っているのではないか。

 映像を解析すれば、災害が発生した瞬間、人間がどのように動き、どのような判断をし、何をきっかけに避難を始めたのかを調べることができる。逃げ遅れた人だけでなく、いち早く安全な場所へ移動した人の行動も分析できるだろう。

 これまでの防災研究が「どこへ逃げるべきか」を中心に考えてきたとすれば、これからは「人間は実際の災害現場で、どう動くのか」を研究する必要があるのではないか。

 スマートフォンは、災害の恐ろしさを世界中に伝えるだけではない。そこには、次に同じ災害に遭遇したとき、私たちがどうすれば生き残れるのかを考えるための、膨大な情報が記録されている。

 災害映像を見ることは、単に恐ろしさに驚くことではない。その中に記録された人間の行動から、自分ならどうするのかを考えること。それ自体が、これからの防災教育の一つになっていくのかもしれない。

あと7151日 経験と歴史の狭間

先日、YouTubeで1996年11月放送の「朝まで生テレビ 元帝国軍人50人の戦争と平和」を見ていて、戦争の「証言」とは何なのか、あらためて考えさせられた。終戦から51年。当時20代、30代で戦争を経験した人たちが、まだ大勢健在だった。今から考えれば、これほど貴重な証言者が一堂に集まる機会は、もう二度となかっただろう。

ところが、番組を見ていて気になったのは、本人が実際に経験したことと、戦後になって身につけた戦争についての知識との境目が、ほとんど分からなくなっていることである。元一等兵や伍長が戦争全体の戦略を語り、水兵だった人が自分の経験したわけではない海軍の事件について詳しく話す。もちろん戦後に研究したことを語るのは自由である。しかし、それを「戦争経験者の証言」として聞くのには少し違和感がある。

ここには、証言というものが持つ、意外な落とし穴があるのではないか。

戦争を経験した人は、自分の体験を後世に伝えようとする。そのためには、自分が何を経験したのかを思い出さなければならない。しかし、人間の記憶はその後の人生から独立して存在しているわけではない。戦後、新聞を読み、本を読み、テレビを見、他人の話を聞く。やがて戦争についての知識が増えてくると、その知識によって自分の経験をもう一度理解し直すようになる。

最初は「自分の部隊ではこうだった」という小さな記憶だったものが、後から知った戦史と結びつき、「あれは戦争全体の中ではこういう意味だったのだ」と解釈されるようになる。つまり、経験を正確に伝えようと努力することが、逆にその経験を歴史によって肉付けしてしまうのである。しかも本人には、その変化に気づきにくい。

50年前の記憶を語っているつもりでも、その記憶の中には、50年間に読んだ本や聞いた話が入り込んでいる。「自分が見たこと」と「後から知ったこと」が、本人の中で一つになってしまうのだ。だから、戦争経験者が戦争について詳しく語るほど、それが純粋な「体験談」なのか、後から歴史によって意味づけされた「記憶」なのか分からなくなる。

これは、故意の改ざんとは全く違う。本人は嘘をついているつもりなどない。むしろ、自分の経験を正しく伝えたいと思っているからこそ、後から得た知識を使って記憶を整理してしまうのである。そしてテレビは、そこにさらに手を加える。

一人の元兵士が「自分の部隊ではこうだった」と話すより、「あの戦争は何だったのか」と語るほうが番組としては面白い。こうして個人の小さな経験が、大きな歴史の物語の中に組み込まれていく。しかし、本当に後世に残すべきなのは、案外そうした「小さな記憶」なのではないだろうか。

どこで何を食べたのか。誰と一緒だったのか。何が怖かったのか。上官はどんな人物だったのか。終戦の日に何を見たのか。そこには、後から歴史を勉強しなければ語れないような立派な意味など必要ない。ただ「私はこうだった」と語ってもらえばいい。

歴史を知ることは大切である。しかし、歴史を知りすぎることによって、自分自身の記憶まで歴史に合わせて整理してしまう危険があるということを忘れてはならないと思う。

あと7155日 迎え火とパンダの追憶

毎年八月になると、お盆がやってくる。今年も十三日に迎え火を焚いて、両親と犬の小太郎の霊を迎えた。

車庫の前で火を焚いていると、不思議なもので、亡くなった者たちが本当に目の前に帰ってくるような気がしてくる。今年も野菜が値上がりしているので、きゅうりの馬も、なすの牛も用意していない。さて、乗り物がないのだから、自力で帰ってこられただろうか――などと他愛のないことを考えているうちに、迎え火は燃え尽きた。

母が亡くなった歳まで、あと十年になった。いよいよその歳が近づいてきたのだなあと改めて感じるとともに、ここまでの年月があまりにも早く過ぎてしまったことにも驚いている。

普段は両親のことを特に思い出すわけでもない。日々の暮らしの中では、いつの間にか記憶の奥へ沈んでいる。ところが、小太郎のことは時々思い出す。スマホに残してある写真や動画を開いて、しばらく眺めることもある。子供のような存在だったからだろうか。犬一匹のことなのに、その死が残したものは意外に大きい。

そんなお盆の時期に、もう一つ、古い記憶を呼び起こす知らせが届いた。

今月五日、同期生だった那須君が亡くなったという。

近況を知る同期生の一人によれば、那須君は数年前に肝臓がんの手術をした後も、まるで長生きを諦めたかのように酒を飲んでいたという。本人は、自分に残された時間を分かっていたのかもしれない。那須君のことを聞いて、真っ先に思い出したのは五十年以上前の出来事だった。

昭和四十八年十月。川崎の日立造船でドック入りしていた練習船「北斗丸」に乗船していた頃である。せっかく東京に来たのだから、どこか見物に行こうということになり、那須君と二人で上野動物園へ向かった。目的は、中国から来たあのカンカンとランランである。日本に来たばかりで、その日が公開初日だった。上野動物園にはパンダを見るための特設ゲートまで設けられていた。私たちはそこに並んだ。

一時間ほどして、彼方まで永遠に続いているのではないかと思うほど長い人の列が、ゆっくりと動き始めた。十列ほどに並んだ人々が流れに乗って、少しずつ前へ進んでいく。やっとパンダ舎の前まで来たと思ったら、今度は「止まらないでください」と職員に促された。立ち止まることもできず、人の流れに押されるようにして、あっという間に外へ出された。

結局、パンダはほとんど見えなかったし、何も覚えていない。それでも、「パンダの公開初日に上野動物園へ行った」という記憶だけは、五十年以上たった今も残っている。

考えてみれば、これはある意味で貴重な経験だった。その後、上野動物園でパンダを見た人は、それこそ何億人にもなるかもしれない。しかし、あれから五十年以上たった今まで、公開初日に特設ゲートに並んでカンカンとランランを見に行ったという人には、一度も出会ったことがない。

そしてこの話を人にする時には、いつも一緒に行った那須君のことを思い出していた。卒業後は会うこともなかった。だから私の記憶の中に残っている那須君は、五十年以上前、詰襟の制服を着て、上野動物園でパンダを見ようとしていた青年の姿のままである。

不思議なものだと思う。パンダはほとんど見えなかったのに、那須君と二人で長い行列に並んでいたことは、半世紀を過ぎても消えない。人の記憶というものは、見たものをそのまま残すのではないのだろう。何気なく過ぎていった一日の中から、ほんの一場面だけを拾い上げ、それを何十年も大切にしまっていることがある。

今年のお盆、迎え火を焚きながら、私は両親と小太郎のことを思っていた。そして、そのあとで那須君のことも思い出した。

那須君、あの頃は本当には楽しかったな。

安らかに眠ってほしい。

あと7181日 Kさんの思い出

九十五歳のKさんが老人ホームへ入所した。家族から「もう家へ帰ることはありません」と聞いた時、覚悟はしていたつもりでも胸の奥にぽっかり穴が開いたような気持ちになった。

Kさんは七十八歳までに日本百名山をすべて登った健脚の持ち主だった。山を引退した後も八十八歳まで町内会の役員として地域のために働き続けた。「百まで生きるよ」と笑って話していた姿が、今でも目に浮かぶ。

転機になったのは三年前、九十二歳の時だった。椅子から落ちて背骨を痛め、それから少しずつ体力が衰えていった。そして今年六月一日、熱中症で救急搬送された。退院はしたものの、自宅へ戻ることはなく、そのまま施設へ入ることになった。

人は誰でも老い、いつかは弱り、そして人生を終える。そのことは頭では十分理解している。それでも、長年元気だった人が少しずつ力を失っていく姿を見るのは、やはり寂しい。

私は民生委員になって七年になる。その間、担当してきた独居高齢者のうち九人が亡くなるか施設へ入所された。民生委員にならなければ、おそらく付き合うこともなかった人たちである。知らなければ悲しむこともなかっただろう。しかし、一度関われば、その人の人生の一部を知り、人柄を知り、思い出ができる。だから別れは決して他人事ではなくなる。

私が初めて町内会長や公民館分館長を引き受けた頃も、何かわからないことがあれば、まずKさんの家を訪ねた。Kさんは実に話好きで、こちらの質問には丁寧に経験を交えて教えてくれた。ところが本題が終わると話はどんどん広がる。呉空襲や松山空襲の体験、若い頃は海軍へ行きたかったこと、戦後は木型職人として腕一本で生き抜き、日本の名工に選ばれるまでになったことなど、時間を忘れて聞き入ったものである。

激動の昭和を生き抜いた人たちは、学校で歴史を学ぶよりも重みのある人生を語ってくれる。苦しい時代を努力と技術だけを頼りに歩み、退職後は今度は地域社会のために働く。その姿勢には一貫して「自分にできることで世の中に恩返しをする」という信念があったように思う。

私たちの世代にとって、Kさんのような生き方は一つの目標だった。立身出世ではなく、誠実に働き、地域に尽くし、最後まで前向きに生きる。その背中を見て、多くのことを学ばせてもらった。

Kさんが施設へ入ったことで、一人の高齢者が町を離れたという以上に、一つの時代が静かに幕を下ろしたような気がしている。昭和という時代を身をもって生きた人たちが、また一人、私たちの日常から遠ざかっていくのである。

民生委員という仕事は決して楽ではない。高齢者が弱っていく姿を見守り、時には別れを受け入れなければならない。知らなければ味わうことのない寂しさを何度も経験する。しかし、その一方で、一人ひとりの人生に触れ、多くの教えを受け、人として少しずつ成長させてもらっていることも確かである。

これが私にとって人生最後の御奉公なのだろう。そう思えば、この少ししんどい役目にも意味がある。Kさんから教わった数々のことを胸に、私もまた、自分にできる小さな務めを果たしていきたいと思っている。