無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8152日 一生元気に生きるために

義母は足が弱って一人で歩くことはできなくなっている。90歳という年齢からすれば元気な方だとは思うが、一人で歩けないというのは著しくQOLを下げているのは間違いない。その足が悪くなったことの原因の一つが四国88か所巡りにあるのだから困ったものだ。

足の達者な義父が定年後始めた、四国88か所歩き巡礼旅についていくために、無理をしたのがいけなかったんだろうと私は思っている。弘法大師と一緒に巡礼をして、心身ともリフレッシュして元気になるならいいが、体を悪くしたのでは意味がない。

88か所巡りが宗教活動であるかどうかは個人の受け取り方の問題だと思うが、ほとんどの人にとっては伝統行事に参加しているくらいの気持ちだろう。私の両親はもちろん親戚縁者ほとんどが一度は回っているが、それは単に菩提寺高野山と特別な関係があるからであって格別に信仰心が篤いというわけではないと思っている。父母、叔父、叔母、その他親戚みんな無理をせず、車やバスで回ったから快適な旅だったようだ。

たとえ宗教活動であっても、それが原因で体を悪くするというのは本末転倒だ。元気に生きることより価値があると確信しない限り、歩き遍路はもとより、寝ないで山の中を歩き回ったり、酷寒の滝に打たれたりすることは、社会生活を普通に営むまともな社会人がやることではない。

70歳を過ぎて望むこともそれほど多くはないが、今一番有難いのは、肩が痛い腰が痛いと不定愁訴はあるにしても、そこそこ元気な体が残ったということだ。これは親に感謝するしかない。他に何があっても体が元気でなければ人生も面白くない。元気な体を残す為には、若い時から体に余力を残すことが重要だと思っている。

つまり、人間の体には限界があり、それを超えて体を酷使して各種スポーツや武道に打ち込んで、うまくなったり強くなったりしたところで、のちになって後遺症で悩まされることもある。そうであるなら初めから無理をせず、過重な負荷をかけずにより完全な体を将来に残すことに重点を置くという考え方が、学校体育等に取り入れられてもいいのではないだろうか。

あと8156日 思考の果てに

歳をとるということは、ある意味過去の中を生きるということかもしれない。寝ても覚めても、ふと思い浮かぶのは過去にあった出来事ばかりだ。それも楽しかったことではなく、呼んでも無いの押しかけてくるのは嫌なことや忘れたいことばかりだ。先輩諸氏も通って来た道だと思えばあきらめもつくが、いい加減うんざりしてくることもある。

過ごしてきた72年の人生は、こうした方がいいだろうと判断し、その判断に沿って用心深く進んできた人生であったといえるし、時代もにも恵まれたようで、まあまあうまくいったのではなかろうかと、64歳で仕事を辞める頃まで思っていた。ところがそれ以降8年間の年金生活を、過去とのかかわりの中で送るうちに、その人生観さえも少し揺らいできた。もっとうまくやれたんじゃないかと過去の自分が囁いてくる。

それが呼び水となって、70年の人生であの時こうすれば良かったのか、ああすれば良かったのか、若い頃は考えもしなかったことが次々浮かんでくる。そのまま放置することは許されない。その場で処理しなければいつまでも尾を引いてしまう。そしていつのまにか終わりのない思考の世界に引きずり込まれてしまう。求めても何も得られない思考の果てには虚しさだけが残されている。歳をとるとこういう精神状況にになるとは若い頃は考えもしなかった。

また寝る時になると、そんなことをする必要はないということはわかっていても、ついつい今日一日を過去との関係において総括してしまう。ここでも楽しい結論が出ることはない。何も考えず、朝目覚めたら起きて、一日を元気に過ごして、眠たくなったら寝るという生活が可能になっているにも関わらず、それだけでは満足できず、ああすればもっとうまくいったのではないかなどと、常に過去との関りを求め続けるこの精神の傾向は死ぬまで続くものなのだろうか。

そんなことをいろいろ考えながら送っている生活の中で、最近改めて気が付いたんだが、女房は仕事が無い日は、食事の支度、掃除、洗濯がメインであとはタブレットでゲームをしている。ゲームが好きだということは、昔「上海」をやりすぎてニンテンドーDSの画面に穴をあけたことがあるくらいだから筋金入りで、いまだに飽きることはない。そんな日常のある日、「一日ゲームをしていて人生空しくないか?」と聞いてみた。すると顔も上げずに、即座に「ぜんぜん」という返事が返ってきた。

これにはちょっと驚いたが、これを本心で言っているとしたら、言わんとすることは「何かを得ようとしてゲームをしているのなら、何も得られなければ虚しくなるかもしれないが、ただゲームをしたいからしているのだから虚しいと感じることはない。」ということではないかと勝手に解釈した。

確かに見ていても女房の方が楽しそうだし、その解釈が正しいとすると、この人は生きる秘訣を覚っているのかもしれないなどと考えてしまった。案外女性は理屈ではなく単純に即物的に、今していることを楽しんだ方が実りある人生を送ることができるということを、生まれながらに理解しているのかもしれない。

そして、何かを得ようとして思考に引きずられるのではなく、思考を停止することによってこそ豊かに生きることができるということを、まさに普段の生活の中で体現しているこの人は、すでに私の遥か前を歩いているすごい人なのかもしれないと、尊敬の眼差しでゲームをしている女房を見ている自分に気が付いた。

あと8158日 1970年代

今から50年も前のことだが、ニューヨークからタンカーに乗船するため、パンナムで羽田を14時頃飛び立ち、アラスカのフェアバンクスを経由して、同じ日付の14時頃、無事ケネディ空港に到着した。しかしそこに至るまでの過程は今と違って大変だった。外務省にパスポート作りに行け。できたから外務省まで取りに行け。アメリカ大使館に行ってビザを取ってこい。こんなことで四国と東京を何回も往復させられた。

しかも会社の四国~東京の旅費規定が国鉄利用だったから、四国のローカル鉄道、宇高連絡船宇野線を利用して岡山迄行き、ここでやっと新幹線に乗れたが、それでも8時間以上かかった。これはかなわんと思い、飛行機運賃をだしてくれるように会社に掛け合った。九州~東京は以前から航空運賃支給となっていたことをその時知った。

博多~岡山は複線電化で特急が走っている。一方四国は気動車がカーブの多い単線を走っている。しかも1時間ほど連絡船に乗らなくてはならない。岡山で新幹線に乗るのにどちらが不便かよく考えてほしいと言ったらすんなりと認めてくれた。

こんなことは若い人達は想像できないだろうが、1ドルが300円もした時代であり、簡単に海外旅行ができる時代ではなかった。日本はまだまだ貧しかった。そもそもニューヨークから乗る船もシェブロンのタンカーだった。ドルで給料をもらえたから日本円にしたら結構な金額になったとはいえ、今インドネシア人船員が出稼ぎで日本やデンマークの船に乗るようなもので、体のいい出稼ぎだった。

当時は日本に生まれたら一生日本を出ることがない人がほとんどの時代だった。これは日本だけではない。世界中のほとんどの国の人達も同じだった。同じ国の同じ国民の中で生き、そこには嫌なことも楽しいこともお互い理解しあえる安心した生活空間があり、人種や国同士の争いが個人のレベルで国内に持ち込まれることはなかった。

今、たまにユーチューブで1970年代の風景の動画をみることがあるが、仮令この時代を知らない人であっても、それを見た多くの人がうらやましく思うのではないだろうか。清潔で落ち着いた街並み、しっかりとした教育を受け、戦争を戦った多数の日本人が日本人として堂々と生きている社会がそこにはあった。

グローバル化と言われ始めたのはいつの頃だったのか。経済発展に呼応してビザもいらなくなり、パスポートは市町村で取れるようになり、世界中どこにでも簡単に行けるようになった。そして日本に住む外国人も百万人単位に膨れ上がっているらしい。それでも足りないとして、日本をなし崩し的に移民国家に変えようとする人達もいるようだ。

しかし、私の周囲に外国人との共生社会なんぞ望んでいる人は誰もいない。望んでいるのはただ日本人が安心安全に暮らしていける社会であり、裕福でなくとも調和のとれた落ち着いた社会ではないだろうか。国はそれを支える国民がいて成り立つもので、政府は国民の意思を見誤ってはいけない。それがわからなければ次の選挙で思い知ることになるだろう。

あと8181日 日本は日本人の住む国

最近川口市でのクルド人不法行為や大分のイスラム教徒の土葬要求、中国人の不動産取得、背乗りりや日本人誘拐、生活保護国保不正使用等外国人がらみの問題が浮き彫りにされてきた。すべてが日本人の持つ性善説を逆手に取られたもので、そろそろ外国人に対する考え方を改める時期にきているのではないだろうか。

基本的には外国や外国人とことさら仲良く接する必要はないし、別に嫌われても良いということだ。日本のルールに従えないならとっとと出て行ってもらえばいいので、そこに感情を交えるべきではない。いい外国人とは仲良く、ルールを守らない外国人はさようならだ。

それに反対する人たちの中ではグローバル化などいう言葉が飛び交っているが、これによって世の中が安全になったのだろうか。少なくとも外国への移動が困難な時代には世界同時多発テロなどというものはなかったし、一部地域の民族紛争が即座に他国の社会を混乱させるということも無かった。民族同士のいがみ合いも地域に限定されていた。国家の枠を取り払うとすることがどれほど危険なことか、多くの国民はなんとなくわかってきているのではないだろうか。

そもそも言語も文化も歴史も宗教も教育も肌の色も違う人たち同士が狭い場所で共生できるのかどうか、主義主張を捨てきれいごと無しで今一度真剣に考えた方がいい。私は無理だと思う。だから国境ができたのであって、これも争いを避ける知恵のひとつだったのではないだろうか。

もちん今すぐに国境を閉じることは不可能にしてもビザの復活はできるはずだ。少なくとも敵対国や教育レベルの違う国、価値観を共有できない国、強制送還を認めない国、犯人引き渡し協定のない国はすぐにでも復活すべきだろう。ほんの数十年前までは海外に行くには必ず相手国のビザが必要だったのだから多少の不便は仕方がない。少なくともトルコのビザ復活は急がれる。

あと8185日 Aさんに幸あれ

Aさんについてもう少し思うところを書いてみよう。4年前に前委員から引き継いだ独居高齢者は15名いたが、そのうち3名が亡くなり2名が老人施設に入居した。仕方がないこととはいえ、民生委員としての期間が長くなり付き合いも深くなるにつれて見送る寂しさも増してくる。

Aさんはもちろん人生の大先輩でもあり、本人や近所の人から聞いた限り、かなり苦労された方のようだ。娘さんが一人いるが、結婚して県外に住んでいるため面倒をみてもらうことはできなかった。しかし、娘さんは気にかけて有料無料の福祉サービスは受けていたし、夕方6時に必ず電話をかけて安否確認もしていた。耳が遠いので呼び出し音が聞こえないので午後6時に電話を取ると決めていたようだ。

「自分の親をほったらかして亭主の親の面倒をみるのはおかしい。」と近所の人に話していたそうだが、たしかに同じ独居高齢者でも子供が近くにいるのと県外に住んでいるのとでは状況は全く違ってくる。元気なうちはそれほど感じなくても弱ってくると子供の存在は大きくなることだろう。子供と過ごした楽しかった日々も思い出されてくることだろう。

私の両親も私が帰ってくることを望んでいた。兄は自衛隊で全国異動していたので早くから諦めていた。32歳の時に転職話を断って帰ってこなかったら、母親が亡くなったあとに残され父親はAさんと同じ状況になっていたはずだ。もしもあの頃、「親のことは気にしなくていいからどこにでも行って好きなことをやれ。」とでも言われたら、おそらく帰ってくることはなかったかもしれない。しかし親はそれは言わなかった。強がらず正直だったと言えるのかもしれない。

Aさんはどんな気持ちで娘を見送ったんだろう。つらかっただろうし言いたいこともあっただろうが、娘の幸せのために我慢したことだろう。今日Aさんのケアマネさんが来て、Aさんの御主人が入っていたのと同じ施設に入ることができたこと、その施設にはそのことを知っている人が大勢いて迎え入れてくれたということを話してくれた。

新しい環境に慣れて、残された時間を今度は自分の幸せのために、少しでも長く楽しく過ごしてほしい。

あと8187日 Aさん施設に入る

担当していた独居高齢者のAさんが家を出て施設に入ることになった。93歳だからひとりでよく頑張ったと思うが、少し痴ほうがでて足も弱っていたから潮時だったのかもしれない。心配していた近所の人達もそれを聞いてほっとしていた。ここ数カ月は家に行っても出てくることはなくなり、毎日来ていたヘルパーさんからいろいろ今の状況などを聞いていた。

Aさんを知ったのは4年前に民生児童委員を引き継いでからだった。そのころはまだ玄関先で呼んだらでてきていろいろ話もしてくれていた。ただ耳がほとんど聴こえないので普通の会話はなりたたず、Aさんが一方的に大声で話すのを黙って聞くことがメインとなり、必要に応じて紙に書いたものを見せるというという形態だった。

Aさんはとにかくよくしゃべってくれた。昭和の初め頃に生まれた人は苦労された人が多いが、このAさんも家業の米麴製造の手伝いで小さい時から苦労されたようだった。2人の姉が先に嫁に行ったので、下の弟が高校を出て一人前になるまではお金を稼がなくてはならない。暑い夏は工場で下着になって一生懸命働いた。

弟が一人前になって働くようになるとようやく自由になった。しかしその頃には婚期を逃してしまい嫁に行くことも諦めていたが、「それでも嫁に行けたんだからよかったよ。」とにっこり笑った。その笑顔がなんともかわいい人だった。

結婚したAさんは生活のために、パチンコやスマートボールの店舗をあちこちに持っていた、S興行という遊技場に勤めることになった。変な客もいていろいろ嫌な思いもしたが、社長さんが良い人で楽しいこともたくさんあった。そして耳が悪くなったのはパチンコの騒音の中で何十年も働いたせいかもしれないというようなことも話していた。

確かに騒音の中で仕事をすると難聴になりやすいということは、Kラインで機関長をしていた友人のT君も補聴器を付けていたからよくあることかもしれない。ただ同期でも難聴になってない機関長もいるから、個人差もあり必ずなるということではないのだろうが、Aさんと知り合って耳が聞こえないということが社会生活を送る中でどんなに不便なことかということを知ることができた。

ある日社長さんが職場にやってきて、「すまないが辞めてくれんか。」と言われた。まだ働けたんだが、お世話になった社長さんに言われたらしかたがない。その時社長さんが「ごくろうさん。」と言って100万円を渡してくれた。「何の期待もしてなかっただけにこれは本当にうれしかったなあ。」と話す笑顔のAさんを見ながら、私は思わず「いい社長さんで良かったですね。」と話しかけていた。

元気なころは手押し車を押して時々うちの前を歩いていた。それに気が付いて手を振るとAさんもにっこり笑って手を振ってくれた。施設での幸せな余生を祈らずにはいられない。

あと8213日 チョコザップ入会

会員数が100万人を超えたと今話題のチョコザップだが、今年7月に家から歩いて7分くらいのところに新規開店した。会費が税込み月3278円で24時間365日利用できるし、今なら入会料無料という宣伝文句につられてすぐに入会した。このようなジムに通うのは50年ぶりになる。

その頃東京でぶらぶらしていた私は、中央線の車窓から見えた「チャンピオン誕生」という大きなボディビルの看板を見てちょっと興味を持った。どうやらそのジムからボディビルのチャンピオンが誕生したらしい。もうジムの名前も覚えてないが、それは中野駅から少し南に行ったところにある小さなビルの地下にあった。10段ほどの階段を下りると受付があり、そこにごつい体のお兄さんが座っていた。体はごついが穏やかに話す感じのいい人だった。

開店早々だったからかジムは無人で、その人も暇そうにしていたのでいろいろ話を聞くことができた。「私のような一般人でもそんな体になれるんですか?」と聞くと、その人は「なれます!」と明快に答えた。とりあえず入会することにしたが、正会員は会費が高かったので、利用時間を制限された安価なクラスに入会したように記憶している。

最初マンツーマンで器具の使い方を教えてもらい、ベンチプレスも余裕を持って20kgくらいから始めた。暇すぎて時間を持てましていたので頻繁に通ったような気がするが、同じ時間帯に来ていた人が話し好きで、いろいろ面白い話をしてくれるので、そちらのほうが忙しく、一生懸命重たいものを持ち上げたという印象は残ってない。始めて2~3カ月で板橋区に引っ越しすることになり、残念ながら何の効果も無いまま辞めざるを得なくなった。

そんなことを思い出しながらチョコザップに行ってみると、ごつごつした器具が所狭しと並んでいた中野のジムとは違って、スマートな器具が整然と並び、中年の女性と学生風の若者が黙々とトレーニングをしていた。ボディビルダー養成という目的ではないのでそれなりの設備だが、それでもかまわないという層の人にとっては非常に快適な施設だ。誰からも干渉されず、24時間、QRコードで勝手に入って勝手に出ていくという新しいスタイルは、今までジムとは無縁だった新しい層を掘り起こしたといえるのかもしれない。