先日、YouTubeで1996年11月放送の「朝まで生テレビ 元帝国軍人50人の戦争と平和」を見ていて、戦争の「証言」とは何なのか、あらためて考えさせられた。終戦から51年。当時20代、30代で戦争を経験した人たちが、まだ大勢健在だった。今から考えれば、これほど貴重な証言者が一堂に集まる機会は、もう二度となかっただろう。
ところが、番組を見ていて気になったのは、本人が実際に経験したことと、戦後になって身につけた戦争についての知識との境目が、ほとんど分からなくなっていることである。元一等兵や伍長が戦争全体の戦略を語り、水兵だった人が自分の経験したわけではない海軍の事件について詳しく話す。もちろん戦後に研究したことを語るのは自由である。しかし、それを「戦争経験者の証言」として聞くのには少し違和感がある。
ここには、証言というものが持つ、意外な落とし穴があるのではないか。
戦争を経験した人は、自分の体験を後世に伝えようとする。そのためには、自分が何を経験したのかを思い出さなければならない。しかし、人間の記憶はその後の人生から独立して存在しているわけではない。戦後、新聞を読み、本を読み、テレビを見、他人の話を聞く。やがて戦争についての知識が増えてくると、その知識によって自分の経験をもう一度理解し直すようになる。
最初は「自分の部隊ではこうだった」という小さな記憶だったものが、後から知った戦史と結びつき、「あれは戦争全体の中ではこういう意味だったのだ」と解釈されるようになる。つまり、経験を正確に伝えようと努力することが、逆にその経験を歴史によって肉付けしてしまうのである。しかも本人には、その変化に気づきにくい。
50年前の記憶を語っているつもりでも、その記憶の中には、50年間に読んだ本や聞いた話が入り込んでいる。「自分が見たこと」と「後から知ったこと」が、本人の中で一つになってしまうのだ。だから、戦争経験者が戦争について詳しく語るほど、それが純粋な「体験談」なのか、後から歴史によって意味づけされた「記憶」なのか分からなくなる。
これは、故意の改ざんとは全く違う。本人は嘘をついているつもりなどない。むしろ、自分の経験を正しく伝えたいと思っているからこそ、後から得た知識を使って記憶を整理してしまうのである。そしてテレビは、そこにさらに手を加える。
一人の元兵士が「自分の部隊ではこうだった」と話すより、「あの戦争は何だったのか」と語るほうが番組としては面白い。こうして個人の小さな経験が、大きな歴史の物語の中に組み込まれていく。しかし、本当に後世に残すべきなのは、案外そうした「小さな記憶」なのではないだろうか。
どこで何を食べたのか。誰と一緒だったのか。何が怖かったのか。上官はどんな人物だったのか。終戦の日に何を見たのか。そこには、後から歴史を勉強しなければ語れないような立派な意味など必要ない。ただ「私はこうだった」と語ってもらえばいい。
歴史を知ることは大切である。しかし、歴史を知りすぎることによって、自分自身の記憶まで歴史に合わせて整理してしまう危険があるということを忘れてはならないと思う。