無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8006日 アンガーコントロール

社会の中で生きていく限り、人同士の争いが無くなることはないが、逆にそれがあるから社会に活力が生まれるといえるのかもしれない。とはいえ、腹が立つことは楽しいことではないし、腹を立てたところで何も解決しないということはよくわかっていても、腹を立てずにはいられないというジレンマが存在する。

先日とある福祉関係の行事の中で、そのひとつとして行われたお茶会の手伝いにボランティアで参加した。お茶会といったところで地区の老人クラブのやっているもので、それほど大したものではない。

私は入口のところで入場者の案内をやっていたのだが、なんとお茶クラブの会員の老女に説教されてしまった。次の入場者を待つ間、茶会の会場が見えるところに立ってるのがしきたりに違反しているということらしい。人がお茶を飲むところを見てはいけない。お茶会とはそういうもので、会場から出て廊下で終わるのを待つようにするべきだと結構強く言われた。

小さな福祉関係の行事のそのまた一部として行われている、たかが老人クラブのお茶会で、しかも部外者ではなくボランティアで手伝いをしてくれている人に対して言う言葉ではないだろうと、これにはちょっと驚いた。私自身50年前に裏千家を習ったことはあるが、残念ながら老女の言うことが本当かどうか判断するだけの知識もないので、納得はできないがまあそんなこともあるのかなとハイハイと素直に従って廊下に出た。

腹がたたなかったかというと、やはり多少は腹がたった。10年前なら逆に問い詰めていたかもしれない。そして少しはスカッとしたかもしれない。しかしそんなことは一瞬ことで少し冷静になると必ず嫌悪感が襲ってくることは嫌と言うほどわかっている。

人に対して怒りを発散した後に沸き起こる自己嫌悪を何とかしたいと、定年後アンガーコントロールを考えるようになり、自分なりにいろいろためしてきた。そして気が付いたことは以下の2点だった。

1.絶対にすぐに反応しないこと

2.必ず肯定からはいること

この2点を実行することでその場での怒りはある程度コントロールできるようになった。それでも怒りの感情は繰り返し繰り返しやってくる。1回目より2回目の方が、2回目より3回目の方がより増幅されることもある。ただ最初の怒りをコントロールできればあとの怒りは他者とではなく自分との対話になる。自己嫌悪とは他者との関係において生ずるもので、自分との対話では発生しない。納得のいくまで対話すればいいことだ。

ちなみに今回の件についてお茶歴の長い女房に聞いてみた。女房も当日お茶を飲みに来て現場の状況もよくわかっている。「お茶会でお茶を飲んでいる人を見てはいけないとかいうことは聞いたことがない。」と言う返事だった。

そして怒りがコントロールされた後に大切なことは、もう二度と関わらないということで、私もお茶会も含めてこれらの行事に参加することは二度とないだろう。