無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8033日 スズメの死んだ瞬間

死の瞬間は生き物には必ずやってくるもので、生きとし生けるものは誰もそれをさけることはできない。しかしその瞬間に立ち会う機会は、医者でもなければそうそう多くはない。私自身生きてきた72年間で、実際に死の瞬間を見たのは父と犬の小太郎の2回しかなかった。

人の死の場合、死んだあとは看護師や葬儀屋の皆さんがやってくれるので、遺体に触れることはないのでわからなかったが、死んだら体がどのようになるのかということを実感したのは小太郎の時だった。

息を引き取った小太郎を抱き上げた時、その温かく柔らかく脱力した体が私の腕の中に安心しきったようにもたれかかり、「小太郎」と呼んだらまた息をしだすのではないかと思わずにはいられなかった。

先日、ヤマト運輸の配達員が持ってきた荷物を受け取っているときに空から何かが降って来た。驚いて足元を見るとスズメが一羽落ちている。すぐ上の電線から落ちてきたようだが、ほんの1秒か2秒前まで生きて電線にとまっていたと思うと不思議な気がした。

鳥インフルエンザ感染の可能性もあるのでちょっとためらったが、しゃがんで顔を近づけてよく見ると、片眼をうっすらと開けてまるでこちらを見ているようだ。そっとつまんで掌に載せた。羽もきれいで老齢のようにもみえない。ぴくりとも動かないのでん死でいるのは間違いないが、体はまだ温かく柔らかく脱力して、まるで生きているようだ。

ゆすったら目を覚まして飛んでいきそうだ。ひょっとしたら目を覚ますかもしれない。そんなことを考えながらしばらく眺めているうちに、最後に小太郎を抱き上げた時の感覚と、その時のどうしようもない悲しさが蘇ってきた。

するとそれまで何の関係も無かったはずの、掌に横たわっている失われた小さな命が急に愛おしく感じられた。スズメとはいえ、生まれて一生懸命生きて死んでいくことに変わりはない。うちの家の前で死んだのも何かの縁に違いない。猫に食べられることが無いよう袋に入れて硬直するのを確認して処理をしておいた。

一度感情移入を許すと死はいつも悲しくなる。