無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8092日 能登の思い出

元日午前零時過ぎに新年の祝詞をあげて今年も始まった。今年は全員の日程が合わず蟹パーティーが6日になったので静かな元旦になるかと思っていたら、子供や孫の13人がやってきてにぎやかにおせちを食べた。そんな時に起こったのが能登地震だった。

最初珠洲市のカメラ映像が映っていたが、その時はかなり揺れてはいたが普段見る地震映像とあまり変わらなかった。それで収まるのかと思っていたらもう一度大きく揺れて今度はあちこちで家屋が倒壊した砂煙が上がり始めた。それに続く津波警報でこれは大変なことになった感じた。その時なぜか昭和47年、20歳の夏に友人と3人で回った能登半島の美しい風景が頭に浮かんできた。

当時は半島ブームといわれ、能登半島も一人旅の女性に人気があったらしいが、我々は別にそれが目的で行ったのではない.......ような気がしている。その頃の能登半島はとにかく道が悪く、当然車にエアコンなんか無いので、窓を開けて砂埃にまみれながら人も車もあえぎあえぎ走った。しかし地震のニュース映像をみると、この50年で道路事情はかなり良くなっているようだ。

能登では穴水のユースホステルで一泊した。今のような携帯電話が無い時代は直接行って確認するしかない。他に行くところがないので何とか頼み込んで泊めてもらった。くたくたに疲れていたのですぐに寝たいのに、ミーティングに出て一緒にゲームをするように言われたのにはまいった。客を客とも思わないこのようなシステムの施設が今でもあるのだろうか。

翌日は今回の地震で被害を受けたあの見附島に渡った。残念なことに、まさに船体を思わせるような切り立った崖は大きく崩れてしまったようだ。元の形に復旧することは困難だろうし、そんなことをすれば人工物になってしまう。形あるものはいつかは壊れる。あるがままの姿で残していくのが一番だろう。

珠洲という字は当然読めなかった。たしか珠洲から海岸を通って能登半島先端の禄剛崎へは行けないと言われ、山を越えて半島の西海岸から向かったように記憶している。当日は快晴できれいな日本海が広がっていた。この3カ月後には練習船北斗丸からこの禄剛崎灯台を見て七尾湾に停泊することになろうとは夢にも思わなかった。

輪島へ向かう国道を走っていると「時国家」という大きな看板が目に入った。田んぼの中の細い道の先の山際にあったが、当時はそれが何か全く知らなかった。吉川英治の新平家物語でも読んでいればもっと価値が分かったんだろうが、若いだけが取り柄の当時の我々には猫に小判だった。ここも古い建物だったが地震でどうなったのか気になっている。

たしか時国家を出たあたりだったはずだ。砂埃をまき散らしながら国道を走っているとヒッチハイクをしている2人の若い女性に出会った。乗せてあげたいが、定員オーバーとなり、すでに大人3人で悲鳴を上げている2サイクル360ccの軽自動車では無理なので手を振ってそのまま走り去った。輪島では車を停めて朝市通りも歩いたような気がするが、小さな漁村と言う感じでさびれた印象だけが残っている。

長野から能登を巡る旅の始まりだった小淵沢までどうやって行ったのかも、友人とどこで落ち合ったのかも、細かいことはすっかり忘れてしまった。その後小海線に乗り換え、美しの森、松原湖、菅平でテント泊しながら長野の知人宅に向かった。今から思えば本当に行き当たりばったりの危なっかしい旅だったが、国語の授業で暗記させられた島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」に描かれた信州に行ってみたかった。

当時は席上過程がほぼ終了し、夏休みが終われば1年間の航海実習にはいるという希望に満ちた時期でもあり、ある意味二度とかえらぬ人生における一つのピークでもあった。あれから50年が過ぎ、一緒に旅をした3人のうち一人は既に亡くなり、残った二人も年老いた。能登地震からこの旅を思い出してつくづく思うのは、老いていくのも悪くはないが、若いということにはとうてい及ばないということだ。

あの頃の夏の光の中で輝いていた能登を思い出しながら、被害に遭われた能登の人達が安心して暮らせる日が一日も早く来ることを願わずにはいられない。