無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10544日

 わしは船乗りの経験は長くはないが、かえって短い期間だったからこそ、受けた印象がマンネリ化せずに、記憶に残っているといえるのかもしれんな。パイロットの件にしても、何十年も乗っていれば、いちいち覚えていないだろう。当時、新米機関士で、見たり聞いたりすること全てが珍しかったし、その後、ほとんど新米のままで船乗りをやめたから、当時の事が強く記憶に残っているんだろうな。

 

 『昔から商船のブリッジに椅子はない。当直は立って行うものである。ところがどの船に行っても一脚だけ椅子を置いている。これはパイロット用で、パイロットは座ってもいいことになっているらしい。ブリッジ左舷側に陣取り椅子に座って前方をにらんでいる、私が初めて真近に見るインド人は、頭にターバンを巻き、立派なあごひげをはやした、期待に違わぬまさにインド人のイメージそのものであった。

 白いターバン、黒い髭、褐色の肌、白い制服、ぴくりとも動かないその姿は彫刻のようでもあった。その彫りの深い横顔は哲学的で、この人は何かものすごいことを考えているに違いないと思わずにはいられなかった。実際にはインド人がみんな宗教的、哲学的であるはずもなく、この人も別にたいしたことを考えているわけではないのだろう。ひょっとしたら、晩飯のことでも考えていたのかもしれない。しかし外見から受ける第一印象というのは恐いもので、その横顔に比べると私を含め、まわりにいた日本人がいかにもしまりのない顔に見えた。

 これを山尾さんに言うと、両手で自分の顔をごしごしをこすりながら「しまりがないか。これはしょうがないぞ。なあ。」と言いながら近藤さんの方を見てにやりと笑った。そして何を思ったか突然パイロットの側に歩み寄った。パイロットが何事かと振り向いた時、彼に向かって最敬礼をした後、「あんたは偉い。」と叫んだのである。これにはブリッジにいた全員が一瞬呆気にとらた。暫くしてどこかでクスクスと押し殺したような笑い声が聞こえたかと思うと、ブリッジ全体が大きな笑いの渦に巻き込まれた。当のインド人パイロットは、いったい何が起こったのかと、きょとんとしている。「山尾君、からかうのはそれくらいにしとけよ。へそ曲げられたらこまるからなあ。」笑いもおさまった頃、園田船長が言った。

 いつのまにか真っ赤な夕陽が地平線に沈もうとしていた。赤く染まった水面に何隻かの船がシルエットのように浮かび上がっている。仮泊地に近づいたという吉田一等航海士の声を聞いて、私たち二人は大急ぎでエンジンルームへ降りていった。』

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あと10545日

 昨日の続きで、カルカッタへ向けてのわしの最初の航海の様子だが、わしもインドは行ってみたい国だったので、期待していた。 

『機関室内にあるコントロールルームには当直の宮崎二等機関士と操機手の前田さん、河川航海ということで機関室の責任者である山尾一等機関士も入っていた。私が先ほど近藤さんから聞いたインド人パイロットのことを話すと、「話にはよく聞くが、実際お目に掛かったことはないなあ。近藤さんから電話があったら俺も一緒に見に行くよ。」と山尾一等機関士が興味を示した。通常、機関科の者がパイロットと顔を合わすことはない。三〇分ほどすると、けたたましいブザー音と共にテレグラフがスタンバイエンジンを指示した。通常航海の状態からエンジン回転数を変える準備をせよという合図である。それに続いてスローエンジン、デッドスローエンジンと立て続けにテレグラフが動いた。そろそろパイロットが併走する小舟から本船のタラップに飛び移る準備をしている頃である。「さあ、お偉いパイロット様のご乗船だ。」宮崎二等機関士が、メインエンジンの操縦ハンドルを操作しながら、近藤さんの声色をまねておどけた調子で言った。その見事な物まねに大爆笑がおこった。五分ほどして通常の航海に戻ったころ、近藤さんからの電話が鳴った。

 私と山尾さんはエンジンルームを出てブリッジへ向かった。一度甲板へ出てガンジス川の景色を眺めてから、外階段を通って行くことにした。陽は既に西に傾きかけていたが、遥か彼方に陸地らしきものが見えた。川幅はいったい何キロあるのだろう。これはどう見てもこれは川ではなく海だと思った。引き戸越しにブリッジの中を覗くと船長、一等航海士、当直航海士、近藤さん、他に4~5名がいてブリッジの中は満員の状態だった。しばらく覗いていると近藤さんと眼があった。彼はにこっと笑って手招きをした。「失礼します。」私は大きな声で挨拶をして中へ入った。「どうしたの珍しい。」双眼鏡を覗いていた一等航海士の吉田さんが振り返った。「インド人のパイロットが偉そうだというんで、どんなものか見に来たんだよ。」山尾さんがブリッジ中に響きわたるような大声で言った。「聞こえますよ。」私は驚いて山尾さんの顔をのぞき込んだ。「なあに、いいんだよ。奴等は日本語がわからないから。ねえ船長。」見ると園田船長も笑いをこらえながらうなずいている。』

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明日に続く

あと10546日

 朝の掃除をしながら、ユーチューブで昔の歌番組などの映像を見ていると、時々NHK紅白歌合戦がでてくることがあるが、この間、わしにとって一番思いで深い、昭和48年の映像が流れていたので思わず見入ってしまった。わしはそれほど熱心に紅白を見ていた方ではないが、昭和48年のだけは思い出に残っている。あれは、昭和49年の1月だったと思うが、カルカッタキングジョージドックに接岸後、船内に次の様な掲示がでた。『カルカッタの領事館で、昨年の紅白歌合戦の映画を上映するので、希望者は申し出る事。バスの送迎あり。』内地で正月を迎えることができない船乗りに、日本政府が紅白歌合戦を見せて、正月気分を味わわせてくれるという粋な計らいだった。誰かがこうやってわしらのことを気にかけていてくれるということが、ほんとうに嬉しかった。バスはM丸のいたキングジョージドックだけでなくキダポールドックも回って、数十人の日本人船員を拾って領事館へ向かった。

 わしの乗船していたM丸は、大晦日、正月頃はカルカッタへ向けて航海を続けていた。其の時の航海の様子などを少し小説風に紹介する事にする。長いので3回ぐらいに分けることにした。

  『荷役を終えた本船は、午後二時にバングラデシュの港町チッタゴンカルカッタへ向けて出航した。一時間ほど川を下りベンガル湾へ出ると速力をあげ、航海速度一四~五ノットで北東に針路をとった。出航スタンバイから解放され甲板に出ると、ちょうどブリッジから降りてきたばかりの操舵手(クオーターマスター)の近藤さんに出会った。私に気が付いた近藤さんは「カルカッタへは、ガンジス川の支流を6時間ほど遡らなければならないので、途中で日没になるよ。」と、特徴のある、落語家のような語り口で話しかけてきた。「その時はどうするんですか。」「アンカー降ろして日の出を待つんだよ。」六〇〇〇トンの貨物船がアンカー降ろして日の出を待つという川がどんなものか、私には想像もできなかった。「あと二時間もしたらインド人のパイロット(水先案内人)が乗ってくるからね。インド人のパイロットは、みんな自分が世界一偉いと思っているから横柄だよ。そうだ、パイロットが乗船して暫くしたらエンジンルームに電話してあげるから、どんなものかブリッジに見に来るといいよ。」そう言うと、近藤さんはまたブリッジへ上がっていった。乾期の空はどこまでも青く、水平線のあたりにわずかに雲がかかっていた。そしてベンガル湾の、緑色の大きくゆるやかなうねりが船体を包み、ゆりかごに乗っているような心地よさを覚えた』

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明日に続く

あと10547日

 最近はどの公園に行っても、球技禁止の看板が立っている。うちの近所にある市営公園もそのようになっているようだが、20年くらい前までは、それほど厳しく言われなかった。うちの子等もボール遊びしたことあるし、時にはわしも付いて行ったこともある。たくさんの幼児が遊んでいるときはやめたり、或は少し離れて遊ぶとか、常識の範囲で気をつけていれば大丈夫なような気もするが、中にはその常識が通用しない連中もいるから、一律禁止も仕方がない面もあるんだろうな。

 特に幼児は、ころころ転がっているサッカーボールに触れただけで、転倒して頭を打つ可能性もあるし、軟球でもあたれば大けがをすることもある。うちの子供等が幼児の頃、近くで中学生や小学校高学年の子が球技で遊んでいるのをみていて、危ないと感じた事も何回もあるから、幼児を持つ親としては、やはり禁止にしてほしいと思うのも当然だろう。

 わしらが小さい頃は、学校の校庭が解放されていて、誰でも入って遊ぶ事ができた。凧揚げ、キャッチボール、三角ベース野球、何でもやりたい放題だった。校庭は広いから、年齢によってそれぞれのグループが、お互い邪魔にならない場所で、好きなように遊んでいた。昭和37年あたりから、管理が厳しくなり、遊んでいると出ていけと怒られるようになったが、それまでは、学校が終わると毎日のように遊びに行っていた。今は怪我でもしたらすぐ訴えられるから、学校も怖くて解放はできないだろうな。

 たいていわしらのグループは隅っこの方で、三角ベースソフトボールや、わしらが「いっせん」と呼んでいた、軟庭ボールを使った三角野球で遊んでいたが、校庭が広いとは言っても、大学生なんかに本格的な軟式野球をやられると、球が飛んで来てけっこう危ないこともあった。三角ベースというのは、少ない人数で、野球の気分が味わえる、楽しい競技だったが、最近やっている子供をみかけない。「いっせん」とか軟庭ボールを使った遊びなら、公園でやっても危険性はないように思うが、そこまでして野球をやりたい子供もいないのかな。

あと10548日

 小さい頃よく読んだ本の中に、大平陽介著「少年少女日本剣豪物語」というのがあった。ハードカバーの立派な装丁の本で、値段も高かったんじゃないだろうかな。初版が昭和31年らしいから、おそらく兄が買ってもらったものだろう。塚原卜伝林崎甚助柳生但馬守宗矩、小野次郎右衛門忠明、伊藤一刀斎、榊原健吉、山岡鉄舟上泉伊勢守信綱、宮本武蔵、斎藤弥九郎、男谷下総守、まだいたかもしれないが、今思い出すだけでもこれだけの剣豪が紹介されていた。わしの剣豪に関する知識の源はこの本だと言っても過言ではないだろう。

 子供向けの本だといっても馬鹿にしてはいけない。無駄無く、よくまとまった非常に読みやすい本だった。小学校4〜5年生の頃、学校から帰ると、内職しているおふくろの横で、おやつを食べながら何回も読み返していたので、ほとんど暗記してしまった。剣豪の話を知っていたところで、特段役に立つことはないが、わしがこの本をよく読んでいたことは、親父も覚えていたようで、その晩年、剣豪物語は捨てずに記念にとっておいたはずだと言っていたが、残念ながら遺品の中には無かった。

 塚原卜伝の新当流一の太刀。母親と貧しい生活をしながら、1人で稽古を続けた林崎甚助の林崎無想流。小野派一刀流の小野次郎右衛門忠明は、若いときは御子神典善と名乗っていて、伊藤一刀斎の弟子だったが、兄弟子善鬼を倒し一刀流を継承した。榊原健吉はただ1人、兜切りに成功した。山岡鉄舟は死ぬまで布団を敷かず、畳に上に寝ていた。新陰流の上泉伊勢守信綱。斎藤弥九郎は子だくさんで、4番目以降の子は面倒だったのか、四郎ノ助、五郎ノ助、六郎ノ助という名前だった。今でも名前を聞いたら、挿絵とともに、いろいろなエピソードが浮かんで来る。

 剣術のすばらしさだけでなく、人間のすばらしさが余す所無く描かれていて、今でも子供必読の書だと思っている。パン屋を和菓子屋に変更するなどという、細かなことで話題になった道徳の教科書だが、そんな本をわざわざ作って読ませなくても、大平陽介著「少年少女日本剣豪物語」を読ませたほうがよっぽど役に立つと思うがな。自分の子供には読ませられなかったので、どっかで探して来て、孫には読ませたいと思っている。

あと10549日

 3年生で小学校を転校して、びっくりしたことの1つに、クラス全員が、毎月学研の本をとっていることがあった。今では本の名前すら、はっきり覚えていないが、『小学3年生の学習』或は『学習なんとかかんとか』、大体こんな感じだったと思う。わし自身あまり熱心に読まなかったので、役に立ったとか面白かったとかいうような記憶はないが、ただ、毎月連載されていた、ある読み物が面白かったので、それだけは欠かさずに読んでいた。

 当時は米ソの大気圏内核実験がさかんで、20メガトンとか30メガトン、果てはベガトン水爆4発で日本全滅などと少年マガジンなんかで大騒ぎしていた時代で、わしら子供もかなりの危機感を持っていた。ストロンチウム90なども、福島原発事故ではたった6ベクレルだったが、当時は350ベクレルも観測されていた。わしらの年代の子供はずっとそれを浴び続け、食べ続けてきたということだ。何の影響も無かったけどな。核実験の後に降る雨には放射能が含まれていて、それにあたると頭がはげるなどと真剣に心配していた。

 雑誌に連載されていたのは、国連によって、恐怖の的だった核実験が禁止され、米ソが核兵器を廃棄して平和が訪れたあとに、宇宙人が来襲してきたという前提の話だった。有効な兵器は核しかないということになったが、米ソは既に核を廃棄して持ってない、さてどうするか、という段になって、突然アメリカが隠し持っていた核ロケットで攻撃を仕掛けた、と続くんだが、わしはここまで読んで、ふと疑問を感じた。なぜソ連ではなくアメリカなんだろう。ソ連が、或は両国が隠し持っていた..........でもいいんじゃないか。

 今から思えば、これは作者や編集者のイデオロギーの問題だろうが、年端も行かない小学生に、こうやって巧妙に『アメリカ=悪、ソ連=善』と刷り込みを行っていたんだろう。そういえば、当時のわしの担任も、北京には蠅が1匹もいないというあの与太話を信じて、真顔でわしらに中華人民共和国の素晴らしさを訴えていたんだから、今から思えば絶望の時代だったな。

あと10550日

 4月になってから左腕がしびれるようになった。安静にしていればすぐに治るだろうと思っていたが、一ヶ月が過ぎてもほとんど変わらない。首を後ろにそらした状態で、頭を左方向に回すと、左の三角筋から親指を結んだ線に沿ってしびれる。しびれるだけで筋力低下や他の症状はなにもないんだが、とにかくうっとうしい。医者に聞いても、歳なんだし、だましだまし使っていくしなないだろうと言われてしまった。ひょっとしてぶら下がり健康器が原因かもしれないが、人には寝違えたと話すようにしている。

 わしは若い時腰を痛めたことがあった。それがちょうど空手初段の検定前だったので、無理をして練習していたら、検定が終わって練習を休めるようになっても、治らなくなってしまった。歩く事もできなくなり、困っていたら、友人が隣の島に痛みを直すのが上手な整骨院があると教えてくれた。問題は、満足に歩けない者が、どうやって港まで行って、船に乗り、さらに隣の島に着いて治療院まで行くかということだったが、島内にタクシーなんか走ってないので、結局、時間はかかっても、ゆっくり自力で歩いて行くしか方法は無かった。

 普段の3倍くらい時間はかかったが、脂汗を滴らせて、ふらふらになりながらも、なんとか隣の島の治療院までたどりつくことができた。しかし着きはしたが、ここでもし治らなかったら、また同じ道を苦労して帰るのかと思うと、絶望感に包まれていた。ところが驚いたことに、たった30分くらいの治療で、帰りはすたすたと歩いて帰ることができた。この島には大きな造船所があったので、工員で腰を痛める人が多かったらしい。そのせいか、町の規模に比べて治療院の数は多かったから、腕のいい人もいたんだろう。

 この時不思議に思ったのが、治療費が500円だったことだ。腰をもんだときも、そうでないときも、電気を当てたときも、そうでないときも毎回500円だった。一体この算定基準はなんだったんだろう。結構アバウトな保険請求していた様な気がする。当時被扶養者は5割負担だから、治療院には1000円はいることになる。いつ行っても患者は満員だったので、少なくとも1日50人はいたはずだ。そうすると1日5万円、年間200日働くと1000万円になる。当時日航機長が800万と言われていた時代だから、これはすごい年収になるなと驚いたことがあった。この時、いっそのこと船乗りなんか辞めて、柔整師になっていたらよっぽど儲かったかもしれんなと、今でも考えることがある。