無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10459日 修羅場となった住宅抽選会場

 大学生の時、夕食付き、週2回風呂付きで¥18000/月の学生寮に住んでいた。わしは16歳から、団体生活をしてきたので、寮生活はもうよかったんだが、安さに惹かれてしまった。或る晩、寮のずっと先輩で、星和住宅社員のBさんがやって来た。わしより10歳以上年上なので、直接は知らないが、わしが寮長をやっていたので、舎監を通して紹介された。

 このBさんは、順番取りの学生アルバイトを5〜6人探していた。Bさんの会社の後輩が、同じ星和住宅が販売する百合丘の分譲地の一画を、売り出す前に購入する予定だったが、手違いがあってその一画も含めて、先に公募を発表してしまった。公募は先着順なので、その場所が欲しいならとにかく一番に並ばなくてはならない。その順番取りを、ここの学生にお願いしたいということだった。

 バイト料もよかったし、わしも含めて人はすぐに集まった。当時、この辺りはまだ緑豊かな丘陵地帯で食事をする所もなかった。わし等は公募期間一週間を、昼の部夜の部と分けて、延べ人数14人でトップを維持する作戦だ。わしがトップバッターとなって指定された時間にいくと、Bさんが待っていて特設の小屋に案内してくれた。

 そこで、ひとまず先頭の位置に寝袋を敷いて、場所を確保することに成功した。わしの後ろは50歳前後のよくしゃべる商売人だった。この人と一日馬鹿話をして、夜の部と交代した。これでうまくいくだろうとBさんも安心していたが、これが最終日になってとんでもない修羅場に変わろうとは、誰も想像できなかった。

 最終日に星和住宅から人が来て、説明会をすることになった。近所に食堂も無い様な、分譲地に建てられた粗末なプレハブの小屋だ。一週間寝泊まりしていると、だんだんと気持ちも荒んでくる。みんな夫婦で交代とか家族で交代で、風呂もはいらずに24時間詰めているんだから、負担も大きかったんだろう。初めはそれほど思わなかったんだろうが、わしらみたいな学生が、交代で詰めていることにたいする不満というか、怒りみたいなものが、だんだんと沸き上がってきていたようだ。とうとうそれが爆発してしまった。

 後ろの方で、わしの方を指差して「この並び方がおかしい、アルバイトが並んで、そんなことで権利が発生するのか。」と声があがると、すぐ後ろに並んでいた商売人が「そうよ、お前は何の資格があってそこに並んどるんじゃい。お前が買うのか?」最初の日の上品さもかなぐり捨て、くってかかってきた。会社の人が問題ないと説明しても、燃え上がった怒りはなかなか収まらない。まるでわし1人を標的にして、鬱憤ばらしをしているような状況になった。

 ここで黙って聞いていれば収まったんだろうが、わしも若かったし、血の気も多かったので、言わずもがなの一言を言ってしまった。「本人が並べとは書いてないんだから、あなたらも学生アルバイトを雇えばいいんじゃないですか。」とたんに、あちこちから怒声があがり、騒乱状態になった。こういう争いには慣れているんだろう、来ていた星和住宅の社員がなんとか納めたが、分譲地一区画2000万円以上していたから、ここに来ていた人達は、或る意味人生を賭けているといっても過言ではない。学生アルバイト如きの若造に、そんなこと言われたら、そりゃ怒るだろう。下手をしたら、刃傷沙汰になったかもしれない。

 これだけの物を買おうとして来ている人達と、二十歳過ぎの若造では背負っているものが違いすぎる。家族のために、莫大な借金をして家を買うということの持つ意味、あの頃は、そういう事すらわからなかった。あれから40年以上たって、当時並んでいた人達の年齢も、とっくに越えてしまった。わしも、少しは利口になったんだろうか。

あと10460日

 午前中、日立のサービスの人がエアコン修理に来た。この猛暑の中、エアコンの故障で冷えないのは、生死の問題にもなるので、急ぎの仕事が多くて結構大変らしい。エディオンの担当者から状況は聞いていたようで、すぐに、外側のケースをはずして点検を始めた。

 うちのエアコンは密閉配管なので、ドレンをガス配管とは別の経路で流すようになっているんだが、その時の工事に問題があったようだ。使っているドレン用パイプが純正品ではなく、エアコンに差し込んであるだけで、ネジで固定できてない。そのため、ゆるゆるで、すでに半分抜けた状態だった。おそらく2年の使用で、だんだん緩んで来たんだろう。そこで、差し込み口にシール剤を塗ってパイプを密着させて、その上からパテを塗って完了した。これで大丈夫と思うが、これでもまだ漏れる場合は、もっと大掛かりになるので、ひとまずこれで様子を見てほしいということだった。

 書けば、たったこれだけのことだが、わしの意識の中では、久し振りに何かを成し遂げた、充実感で満たされていた。ほんと滑稽だが、こんなちょっとしたことが、人が生きるための原動力になっているんではなかろうか。誰かの一言、何処かで聞いたワンフレーズ、映像の1シーン、それによって人生が変わることもあるように、どんな小さなことでも、ひとたびそれと波長が合えば、増幅され、心が満たされ、幸せになることができる。

 ずっと家にいても、この感覚は時々やってくる。外面的な変化が無い分、内面的な変化に敏感になるのかどうか、外に出て仕事をしている時より、多いのかもしれない。自分の内面を観察しているなどと言っても、周りから見たら、何もしてないのと一緒で、笑われて終わりだろうが、こんなことやって居れるのも、先は見えているし、何とか飯だけは食っていける、年金生活者の特権とも言えるだろう。有り難いことだ。

 わしも若い頃はわからなかったが、何事に対しても、つまらないとか、馬鹿馬鹿しいとか思っていたら、幾ら立派な仕事をして、お金を稼いでも、ほんとうに辛いだけで、人生終わってしまう。エアコンの修理をしてもらった、などということは、つまらない、些細なことかもしれないが、そんなことでも、これだけの充実感を感じることができるのも人生、これを馬鹿馬鹿しいと笑うのも人生、笑いたい者には笑わせておこう。

あと10461日

 本当に毎日いろいろなことがあるもんだが、昨晩は、女房の母親が「オレオレ詐欺」にひっかかりそうになった。話を聞くと、将に典型的なオレオレ詐 欺のパターンで、何でそんなものに騙されるのか不思議だ。それでも、その後で、女房にに電話をかけてきたということは、少しはおかしいと思ったんだろう。 わしのおふくろなんかは、完全に騙されて、通帳を持って銀行に行こうとしていたから、それに比べたら、まだましな方だと言えるのかな。

 概略はこうだ。「俺だけど、俺、”てつや”だけど。」という電話からはじまった。突然の電話で、”てつや”と言う名前に覚えはなかったが、甥や姪も多いの で、すぐに全員の名前が頭に浮かんで来るわけでもない。そのいわば記憶の谷間に、その”てつや”という名前がすーっと入ってきたんだろう。そして、義妹の Gさんが病気で寝ていたのを、以前から気にしていたので、「そういえば、あそこの子供に”てつや”というのがいたかもしれない。」と、瞬間的に思い込ん だ。そして「Gさんとこの、てつやかな?」と言ってしまった。

 母親も90が近いので、その後の話は要領を得ないんだが、なんでも、高校時 代の友達と昼頃にそちらの家に行くから、家にいてほしいということらしい。ただ、お金の話はしなかったということだ。これが本当なら、なんとも中途半端な オレオレ詐欺だが、ひょっとすると、家に来てからそれを切り出す、新手の詐欺か、或は居直り強盗かなどと、女房に言われて怖くなったんだろう、わしに用心 棒代わりに、家に来てくれと言い出した。まあ、行ってもたいした用心棒にはならんけどな。

 さて、わしは、今朝の10時30分から家に行っ て、どんな奴が現れるか、わくわくしながら前の道路を監視していたが、11時になり、12時になり、2時になっても一向に誰もやって来ない。しかし、よくよく考えてみたら、電話番号を電話帳にも載せてないし、相手にも話してないんだから、昼頃来るといっても、どうやってこの家まで来るんだろう、ということ に気が付いた。

 せっかくあそこまで、”てつや”の存在を信じ込ませたのに、一体何がしたかったのか、よくわからない。ひょっとすると、単なる間違い電話で、偶然話がかみ合っただけかもしれない。今回は、わしが3時間程退屈しただけで、他に被害はなかったが、あの電話で、困っているのでお金 を貸してほしい、という話になっていたら、どうなっていたことか。しかし、女房に言わせると、「あの人はお金にはしっかりしているから、やすやすと、お金を渡すような事は絶対しない、それどころか、あそこのGさんには300万貸して、返して貰ってないから、逆に300万返してくれと言ったと思う。」ということなので、この点に関しては、心配する必要はなさそうだ。

あと10462日

 毎日を平穏に過ごしたいと思っていても、何かしら、やらなくてはならないことが出て来る。エアコンから水が漏って、床に水たまりができているのに、3日前から気が付いたんだが、濡れたら拭けばいいだろうと鷹揚に構えていた。どうせ排水溝に、ゴミでも溜まっているんだろう、よくあることだと、高をくくっていたが、量も増えるし、どうもそれだけではないような気がして、今日、エディオンに修理を依頼した。

 昔、外国航路で機関士をしていたときは、冷凍機やエアコンは担当機器だった。今ではほとんど忘れてしまったが、当時は少しは勉強もしたので、限りなく素人に近いとはいえ、全くの素人ではない。船に積んであるような、大型のエアコンなら、中身が見えるので、どこが壊れているかすぐわかったが、特に最近の家庭用エアコンは、全体がブラックボックスのようで、覗いて見ようとも思わない。

 うちにあるエアコンは、日立しろくまくんという、お掃除機能つきの優れものだが、今日点検に来たエディオンの担当者が、汚れたフィルターを見てびっくりしていた。かなりひどいので、水洗いだけでは無理だから、中性洗剤で洗ったほうがいいらしい。しかし、このエアコンはお掃除機能付きではないのか、と思っていたら、それを察知したのかどうか、担当者は、お掃除機能は所詮限定的なもので、年2回は人力でやらなくてはだめだと説明してくれた。

 しかも、しろくまくんの、お掃除機能がきれいにするのは、フィルターの片面だけで、それも完璧ではない、と言われて、フィルター面をよく見てみると、確かに片面は、まあまあ、きれいだが、反対側は、かなり汚れている。なるほどそういうことかと、その説明に納得してしまった。結局、どこかに細かなひび割れがあって、そこから水が漏れているようだが、部品交換も必要なので、今月4日(金)午前中にメーカーが修理に来るということになった。

 これでエディオンの担当者は帰ったんだが、先ほどのフィルターの話にちょっとひっかかった。だいたい、フィルターの片面がきれいというのは、お掃除機能云々という前に、当たり前のことだろう。ゴミがたまって汚れるのは常に片面で、両面が同じように汚れるなんてことはあり得ない。お掃除機能付きというなら、その汚れる側を掃除しなければ意味がないと思うが、どうなんだろう。或はそのようになっているのか。いずれにしても、機能てんこ盛りの最近の家電は、よくわからんな。 

あと10463日

 5月だったか、huluが変な事になって、fireTVで見えなくなってしまったので、仕方なく解約したが、その後、どれにするかいろいろ検討した結果、1番安い、500円/月のdTVを契約することにした。女房が見たいという、ウォーキングデッド やクリミナルマインドも見えるし、それよりも何よりも、孫用のアンパンマンチャンネルも見えるので、問題ないだろう。今朝の10時頃、契約をするつもりで、契約に関する事項をネットで調べていると、ポイントサイトを経由して申し込むと、ポイントが貰えるというサービスがあることに気が付いた。

 これは使わなければ損だと、早速、紹介されていた4種類のサイトのうち、ポイントが一番多く貰えるサイトに登録をした。ここまでで、既に45分経過していた。そのサイトにログインして、さあ登録しようとdTVを検索したが、検索結果0で、何も引っかからない。おかしいなと、何回やってみても同じだった。ここで、冷静になって考えてみると、ポイントが貰えるというネットの情報は、いつの情報なのか、全く確認してなかったことに気が付いた。このポイントサイトでは、そのサービスはすでに終了していたんだろう。この時点で、始めてから1時間30分経過して、既に昼になっていた。

 誰でも経験していることだろうが、パソコンの前に座って何かしていると、時間があっという間に過ぎてしまう。しかも時間がかかるわりには、大したこともしてないし、終わった後の充実感も感じられない事が多い。時間を無駄に使ったような気がして、後悔するんだが、翌日になるとまた同じ事を繰り返している。一種のパソコン中毒ともいえるのかな。パソコンがない頃は何をしていたんだろうと、時々考えることがある。

 既に2時間近くの時間をロスしたことで、他の3つのポイントサイトを調べるだけの気力は失せてしまい、500円分のポイントなんかもういらない、いらないと、直接dTVと契約をした。初めからこうしておけば、2時間前に終わっていたはずだ。この2時間を返してほしいような気もするが、その一方で、これでアンパンマンチャンネルも見えるから、これを見せておけば、孫等が来ても、静かになるだろうと、今回だけは、ちょっとした充実感を感じることができたような気もする。

あと10464日

 わしは今までに一度だけ、病院に行ったとき、医者から「いらっしゃいませ。」と、あいさつをされたことがある。その時はわしも相当びっくりしたが、その後、時がたつに連れて、あの時の出来事が、本当にあったのかどうか、いろいろ疑問に感じるようになった。

 あれはわしが30歳くらいで、まだ東京に住んでいた時だった。一週間ほど前から眼が痒くなり、目やにが出るようになった。昼間は治っても、夜寝ているうちに、痒いからかくんだろう、朝起きると目やにで眼が開かない。これでは仕事にも差し支えるので、近所に眼科があればと思って探してみたが、見つからない。その時、東京に開業医が少ない事に初めて気が付いた。

 当時、勤務先が丸ノ内線本郷3丁目の近くにあったので、さすがにその周辺で探せばあるだろうと思い、職場の人に聞いてみたが、誰も知らない。東大病院が近いので、そこに行けばと言われたが、目やにが出るくらいで大学病院はないだろう。仕方がないので、昼休みに歩いて探してみることにした。当時、あの辺りは狭い路地が多くて、どこを歩いているのかわからなくなることがあった。今のようにGPSがあればいいんだが、2〜30分の時間内に効率的に回るのは、結構骨が折れた。

 探し始めて2日目のことだった。ふと、右側に古い家があることに気が付いたので、何気なくそちらを見ると、少し奥まった所にあるガラス戸に、消えかけたような字で○○眼科と書いてある。他には看板も何も無い、普通の民家だ。例えていうと、トトロに出て来るあの洋館のような感じかな。まるで計ったように、わしの前に現れた眼科医院なんだが、道路わきの庭も、手入れがされてないし、これは何かに騙されているんじゃないかと、俄には信じられなかった。

 玄関を開けて入っていったが、人の気配が全く感じられない。わしは大声で「こんにちは。」と2〜3回声をかけた。すると奥の方から誰かが歩いて来る、スリッパの音が聞こえた。現れたのは、大きな黒猫を抱いた、白髪の上品なおばあさんだった。そして突然「いらっしゃいませ。」と言われた。そしてもう一度小さな声で「いらっしゃいませ。」とつぶやいて、自分で首を捻って、はにかんだように笑ったので、自分でもちょっとおかしいことに気が付いたんだろう。ここが病院だと言う事を、普段は忘れていたのかもしれない。

 見た所、待合室も使われた形跡がなかった。その猫を抱いたおばあさんが、症状を聞いたので、それを伝えると、左側にあった診察室に案内されて、椅子に座るよう促された。「暫くお待ちください。」と言って、おばあさんは猫を抱いたまま部屋から出て行った。周囲を見ると、手を洗う消毒液が入っているはずの、白い洗面器もカラカラに干涸びているし、椅子にも埃がたまっている。何か宮沢賢治の不思議な世界に迷い込んだようで、これから何が始まるのか、不安というより楽しくなってきた。

 暫く待っていると、さきほどのおばあさんが、白衣を着てやってきた。今度は猫は抱いていなかった。わしはてっきり、この人は医者の奥さんか、母親だとばかり思っていたので、この人が医者かとちょっと驚いた。その後は、水道で手を洗って普通に診察し、アレルギー性結膜炎の薬を出してくれたので、やっと病院らしくなって来た。しかし、建物内は相変らず人の気配もないし、静まり返っている。患者も来ないんだろうなと思いつつ、お礼を言って病院を後にした。

 その後、もう一度薬を貰おうと思って、その病院を探したが、不思議な事に、どこをどう歩いたか、どうしても思い出せなかった。診察して薬を出してくれんたんだから、確かにあったはずだが、見つけることができなかった。いらっしゃいませと言った後で、はにかんだように笑った、あの上品な、黒猫を抱いたおばあさんは、本当にいたんだろうか、あの病院は本当にあったんだろうかと、今でも時々思い出す。

あと10465日

 世間ではよく、一途に生きた人とか、ひたむきに生きた人とか、表裏無く、真面目に生きた人とか言われる人がいるが、それは大体、その人の人生が終わった後、振り返って言われることがほとんどで、過ぎ去った人生の、概略にすぎない。特に伝記などを読むと、ある一面だけを強調して、読者を一定方向に導こうとする作為が感じられることもある。人の人生、本当はそんな単純なものではないはずだ。

 誰でも、何十年も生きて自分を見て来たら、人は騙せても自分を騙すことはできない。人生奇麗ごとではないということは、骨身に沁みてわかっているはずだ。この自身を見る目と同じ 視点で、1人の人の生き様をよく見た時、こう生きた、ああ生きたといったような単純なものではなく、こんなでもあったし、あんなでもあった。そして、そんなでもあった、と厭も応も無く、併せ持つ、様々な一面を厳しくさらけ出している事に、気が付くだろう。

 しかし、更にこの、自身を見る目を研ぎすまして、他者ではなく、自分自身をもう一度、深く見つめ直すことができたら、わしは、人間とは弱い者ではあるが、自分に対しては妥協を許さない、非常に厳しい、もう1人の自分が、必ず後ろに控えているような気がしてならない。それは道徳或は宗教とも呼ばれるものかもしれないが、おそらくそれを包含するような、もっと大きな存在だと感じている。その視点を感じるようになり、ひとたびその視点に写るものが浮かび上がって来て、自分の持つあらゆる虚飾を、はぎ取ってしまうと、残るのは、裸で貧弱で弱々しく佇んでいる、実物大の自分の姿だろう。

 夜、1人になり、来し方を振り返った時、或は、深夜ふと目覚めた時、昼間には感じることがなかった、深い闇を感じる事がある。その闇を、静かに眺めている、自分があるとともに、恐怖を感じている自分もいる。単なる他者からの視点では、絶対に表に出る事のない、自分だけが知っている、自身の弱さや愚かさ、より以上に自分を大きく見せようとする馬鹿ばかしさ、人よりも前に出ようとする浅ましさ、何をするにも損得を考えている偽善者、そんな虚飾に包まれた自分が、闇の中から浮かび上がってくる。実物大の自分を知るまで、止む事はないだろう。

 たとえ人からどんなに誉められても、どんなに感謝されても、そのことを自分が知っている限り、心の安らぎがやってくることは無いだろう。そんなことは、知らない方がよかったのかもしれない。