無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10813日

 夕方送り火を焚いて今年のお盆も終わった。明日から女房も仕事で朝が早くなるが、わしもいつもの生活パターンに返ることになり、ほっとしている。連日35度を越える日が続き、雑巾がけをするだけで汗びっしょりになり、風呂掃除が終わる頃にはぐったりしてしまうんだが、体力の低下は如何ともし難いな。ほんとこまめに水分を取るようにしないと熱中症になりそうだ。今朝なんかも10時には太陽参拝、祝詞奏上も終えたんだが、気分が悪くなって、30分程横になっていた。正直なところ、たまには、今日は掃除はやめたいなあと思うこともあるんだが、これは自分との約束だから体が動く限りは続けないとな。

 自然にまかせると人間楽な方に流されて行くのは仕方が無いことではあるが、わしは、あえてそれに抵抗して、つらいこと、しんどいことを自分に課すということは、決して無駄ではないと考えるんだな。つらいことやしんどいことをやるには、どうしてもそれを意識してやらざるをえない。強く意識して1つのことをするということは、普通の生活ではあまり経験する機会はない。わしもそうだが、ほとんどの人は、朝起きてから寝るまで、とくに意識するということはなく、たいていはぼんやり過ごしているんではないかな。

 息を意識してそれを数えるという数息法だが、簡単なようでこれはむずかしい。寝てしまうんだな。単純なことを意識し続けるということは、こと程左様に難しい。わしはこの代用に掃除、飯炊きを意識して行うという方法を選んだわけだ。これが正しいのかどうか、わしにはわからんが、とにかく行くとこまで行くしか無いんだろうな。