無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10772日 鈴木春山洞さんの思い出

 わしは29歳の時に渋柿という俳句結社に入って句作を始めて、2年くらいでやめてしまった。学生の時に住んでいた寮の舎監の知合いに、渋柿を発行している人がいて、舎監に俳句をやりたいというと、すぐにその人を紹介してくれた。家は高田馬場あたりにあって、わしが尋ねて行くと、若い者がくるのは珍しいと歓迎してくれた。その後たびたびお宅を訪ねて添削などをしてもらったが、そのたびに食事などもごちそうになりずいぶんお世話になった。
 句作をやめたのは575が煩わしくなったからだ。どこにいっても、なにを見ても、何を感じても、何をしても、習慣的にすぐに575に置き換えようと考えるのに疲れた。何も考えずに景色を見たいときもあるだろうし、美しいものはただ美しいと感じたらいいだろう。うまいもんを食べたら、食べることに集中すればいい。ことさら季語をいれて575にこだわることもあるまい。

 もう1つ嫌になった理由は、俳句は作為的でない振りをしているが、ほんとはすごく作為的でなければできないということがわかったからだ。言ってみれば言葉遊びだ。もちろんそんなことわかった上で句作している人も多いんだろうが、わしはそこまでやって俳句を作ろうとは思わなくなった。ただ、575に納めるために、歳時記や辞書からいろんな言い方を探してくるので、日本語力がつくことはまちがいない。

 たしか大橋区民会館での東京本社句会に初めて参加した時、わしの正面に愛媛から来た、渋柿で一番長い名前「春山洞朱髪童子」だという人がいて、高校の校長を定年退職したので初めてこの句会に参加しましたと自己紹介していた。そして長過ぎるのでこれからは鈴木春山洞と改名するようなことを話していた。

 勿論鈴木春山洞さんは、前に座っていた29歳の若造のことなど覚えてないだろうが、わしは12年前、ある施設の部屋の入り口で「渋柿 鈴木春山洞」と書かれた札を見つけたとき、昔、大橋区民会館で少し白髪の混じった髪をバックにして、大きな声で自己紹介していた「春山洞朱髪童子」改め鈴木春山洞さんの姿が頭の中を駆け巡った。そして、あの人が施設に入っているのかと、時の流れの残酷さに打ちのめされた。女房の兄が脳幹出血で倒れて、命は取り留めたが車いすの障害者になってしまったので、病院退院後の施設を探して回っていたところだったので、わしらも大変な時だったというのもあったんだろう。少し部屋の前で立ち止まってそっと中をのぞいてみると、ベッドに老人が寝てもう1人介護の方がいたようだった。なんか圧倒されてわしは声をかけるのはやめにした。

 29歳だった若造が54歳になっていたんだから、60歳だったであろう鈴木春山洞さんは85歳くらいだったんだろう。わしにとっては突然の懐かしい出合いだったんだが、寂しさだけが残った。