無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10755日

 わしの家に下宿していた学生は、持って来る荷物といっても、布団袋と小さな机、電気スタンド位で、ほとんど何も無かった。だから3畳でも暮らせたんだろうな。わしは一度だけ、その学生が誰だったかは忘れたんだが、たぶん卒業するんで荷物を家に送るときだったんだろう。その作業に、小学校へ上がるまえのわしを一緒に連れて行ってくれたことがあった。当時の学生は引っ越しには大八車を使っていて、その大八車を商売で貸してくれる所があったんだな。そこは、うちから200mほど離れた通りにあり、表に大八車が5〜6台並んでいた。その学生は家の中に入って話をした後1台の大八車を引いて来て、わしをそれに乗せてくれた。そしてそれを引いて家まで帰った後、自分の荷物を積んで、今度はわしを布団袋の上に乗せてくれたんだな。その学生はそれを大学まで引いて行って、大学の片隅にあった倉庫のようなところにしまったんだが、たぶんわしが、「ほんとにここでええん?」とでも聞いたんだろうな。「ここでええんよ。」と答えた声だけはなぜかはっきりと覚えている。おそらく大学がまとめて日通に手配していたんだろうな。

 日通といえば、クロネコ宅急便ができるまで荷物輸送は鉄道チッキか、日通だけで、日通なんかまさに運んでやるという殿様商売だったな。ちょっと話は長くなるが、あれはわしが船乗りになった昭和48年に神戸に入港した時だったな。百科事典のセールスが船に来て、わしはうまいことその口車に乗せられて24巻全巻注文してしまったんだな。出航後洗脳が解けて、これは大変だと気が付いたんだが、自分ではどうしようもないので、船から親父宛に、「送られて来た百科事典は封を切らずに返品解約してくれ」と電報を打ってもらった。それを受け取ったおふくろがあわてて日通に電話して、量が多いので取りに来てほしい伝えたところ、取りにはいけないので営業所まで持って来てくれ。持ってくれば運んでやる。というようなことを言われたようだった。百科事典24巻だからかなりの量だな。さげて行くわけにもいかず、おふくろは仕方が無いのでタクシーを呼んで運んだと言っとったな。この話は後に聞いたんだが、おふくろはかなり憤慨していたな。

 このように日通は横柄な態度でみんなに嫌われていたんだな。しかし代替手段がなかったので、利用せざるを得なかったんだが、そこに現れたのがクロネコヤマトの宅急便だった。若い人たちは、日通独占の時代を知らないから、そんなに気が付かないし過小評価しているかもしれんが、これの出現は、ほんとうに近代稀に見る流通革命だったな。