無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10660日

 あと10660日になってしまったが、わしが何をしようがしまいが、何を考えようが考えまいが、午前零時がくれば何事もなかったかのように、歯車がコトンと1つ動いて死が一歩近づいている。今すぐは嫌だが、時がくればそれも容認できるようになるのかな。そうありたいとは思うんだが、死がどんなものか、残念ながら此の世に今生きている人は誰も知らない。中には知ったように話している人もいるようだが、まさに「講釈師見て来たような嘘をつき」という事じゃないのかな。わしの神社参拝一人旅でも、知らないところに行くのは多少の不安はあるんだから、あの世への一人旅となると、不安に感じない人は誰もいないだろう。従容として死を迎えると、言うのは簡単だが、実際には、死がどんなものかある程度わからなければ、そういう状態にはならないだろう。これは哲学や思想の問題ではなく体験の問題だと思うが、普通の生活をしている人にその体験を求めても不可能な事で、そこに宗教の出番があるんだろうな。

 そういえば今朝方の夢におふくろが出て来た。場所はS神社の下あたりで、わしの知らない人と2人でこちら向いて歩いて来たので、わしは「かあちゃん」と声をかけそうになった。しかし、わしも友達と一緒だったんでそれも恥ずかしいような気がして、「何しよん」と声をかけた。おふくろも気づいたようで、こちらを向いて何かを話したような気がするんだが、残念ながら忘れてしまった。元気そうだったし、一緒にいた人は新しく出来た友達なんかな。

閑話休題

 そのおふくろが最期2週間程を過ごしたのがカトリック系のホスピスで、集会も行われていて、誘われもしたんだが、そういうのには一度も参加しなかった。わしは宗教は信じるものではない、体験するものだとは思うが、癌で死にそうになっているおふくろに、今更そんな事をいってもしようがない。少しでも楽になるならと思って、話を聞きに行くことを勧めたんだが、頑としてきかなかった。ちょっと話を聞いたくらいで何が変るのかという気持ちだったんだろうな。それはそれで正しいのかもしれない。しかし、おふくろがいる間にも何人もの人が亡くなったが、中には死ぬ前まで明るい人もいたから、宗教を信じる力も侮れんものがある。とはいえ、あの世へ行くまでは信じて、心穏やかに行けたとしてもだ、行ってみたら話が違うとわかって、さあどうしてくれると文句を言っても、「講釈師見て来たような嘘をつき」牧師や坊さんのアフターケアは無いから、自己責任ということになるんだろうな。

 あと10660日、本物を求める旅はまだまだ続くな。